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超口語体

最近親の仇かと言うペースで「渡る世間は鬼ばかり」第一シリーズを見ている。見ているというと少し違う、実際はラジオのように会話を聴き流して状況を把握している。「渡る世間は鬼ばかり」はドラマとして非常に語るべき内容を多く含んでいると思う。何よりもまず、第一に言いたいのは登場人物の不自然かと思うようなレベルの説明口調である。条件節という条件節があんなに繰り返されるドラマは他に存在しない。ことあるごとに「敗戦の何もないところから」とか「5人の娘を育て上げてきたけど」みたいな前置きが登場して思わず笑ってしまう。この異常な説明口調は、一説によると夕飯の準備中の主婦が画面から少し目を離しても状況が分からなくならない為の配慮なのだそうである。たしかにラジオドラマみたいにして僕も聞いていた。そもそも1年クールのドラマなので話が長すぎて、まともに画面の前に正座して視聴するというやりかたでは、現代の資本主義によって高速娯楽消費マシーンと化している僕には到底鑑賞できないのだ。そういう訳で、ここ一週間ほど僕は現実の他人とまともに会話もせず画面内の岡倉家と小島キミはじめ古き良き時代のイジワルばあちゃんの会話をただ耳に入れていた。しかし、会話という物は聴いているだけで不思議な力があるもので、いつの間にか僕の喋ることも橋田須賀子節をまといだしているのである。口癖が「そんな道理がありますか」になった大学生なんてキモすぎる。しかし橋田寿賀子の長台詞に晒され続けると、僕の会話までも冗長に、かつ昭和親父のような古風さになったような気がする(おそらくこれは言い過ぎだろう)。そして文章をタイピングしてみると、以前よりすらすらと執筆が進む。以前から僕には長い文章が書けない、特に日常会話が書けない悩みがあった。しかし、最近では頭の中で岡倉大吉に文章をしゃべらせてタイピングしていると比較的自然に言葉が出てくる。おそらくこれは、条件節を排除しないだとか同じ説明を繰り返すだとかの「渡る世間は鬼ばかり」での橋田寿賀子のセリフ技法が知らずのうちに僕になじんできているのだと思う。小説や脚本などで、「会話文が書けない」という人はとにかく自分が他人同士の会話や映像作品やラジオなどで、会話を聴くことに徹してみてはいかがだろうか。ちょっと前に流行ったスピードラーニングというのがあったが、あれは英語の文法を理解しない程度の初学者には難しいと思うが、其れなりに文法や語法を学んでいて、ネイティブの会話を聴ける学習者にはいい教材なのかもしれない。せっかく我々はポスト言文一致運動の時代に生きているのだから、台詞を学んで散文にフィードバックするというのも立派な技法のひとつだと思う。まあ、それはそれとして、生身の人間と会話をしたい。外に出たりサークルや友達の集まりに出る気が起きなかったため、マヌケなことに、生の会話はしばらく聞いていない。接客で営業をするのでセールストークはやるのだが、それはいくら喋ったとて会話欲を1ミリも満たしてはくれない。

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