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欠如

 最近昔のことを話すことばっかりで新しい体験や誘いをできないでいる。これまでもずっとそうだったのだが、最近はそれにもまして懐古主義者になっており、もはやノートを描く話題にも乏しいという有様になっている。

 しかし、この文章は僕のリハビリの為の文章であるから、書くことが無くなっても強引に描く。

 リハビリと言うのは来る10月の群像新人文学賞の締め切りに向けてずっと書きたかった小説を書くためのデモンストレーションである。

 書きたい感情の乱流はこの夏結構いっぱいあったはずなのにいざ机に向かうとスマホをいじったり映画を見始めたりウェルベックを読み始めたりと集中できず、いよいよコメダにこもらないと一文字の生産性もない人間になってきている。

 文字の生産性が無くなった代わりにこの夏は今年の3月から通い始めていた自動車学校のカリキュラムをついに終え、その足で茨城県の未開拓地にある免許センターに行き、晴れて初心運転者となった。自分的には入学当初からずっとずっと計画していた免許の取得は、遅れに遅れて3年夏のこの時期までかかった。

 ただまあしかし、取ってしまえばこんなに晴れやかなことはない。

 とは言ったが、しかし僕は浪人した年の2回目の筑波大学の受験の手ごたえが最悪だった時以来全てに達成感を感じなくなっている。

 今記憶に強く残っている光景は、回線が混雑してすぐ開かなかった合格発表のPDFファイルや、免許センターの試験コースの入り口の前にある、ビビッドな字で交通事故の悲惨さを伝えるスライドが絶えず流されていた電子パネルではなく、帰りの父親の車から見た研究学園駅前の高層マンションの夜景であるとか、卒業検定前夜遅くに女の子から筑波に戻ってきている先輩と会うのに人見知りだからついて来てほしいと言われてついて行ったことしかない。

 物事が終わった後より終わる直前の方が、全てが終わった今では大切な瞬間だったなと考えることが多い。
 
 死ぬまで何事もこんな感じで終わるのかな。そうだったら素晴らしい。出会ったすべての人に対してその外見や性格や信条を想像するのが僕の趣味であり癖であったのだが、今はそれをすることもできない。

 想像力が欠如してきていて、それが本当に自分でもわかるから、不安で不安で仕方なく、抗不安薬を飲む頻度が高まっている。ここまで書いて約1000字だが実際ぼくはこの文章で何を伝えたかったのか全く分からないままだった。

 しかしまあいいだろう、現代の大学生にとって生活とはこんなレベルのものでしかないのだ。

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