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【短編小説】MISSING 3.どこにもいない人、Nowhere Man

遅い梅雨が始まった。今日も朝からざあざあと雨が降り出した。翼が濡れるとこんなに重いとは知らなかった。羽が乾く間もなく雨が降る。雨が止んでいる少しの間も、空気は湿気を含んでいる。体が弱ってきていた。
そのまま屋上に身を潜めて一日を過ごしたが、結局家に帰ることはできなかった。家には黄色い帯が張回され、警察が最低一人、常にその場を監視していた。住民たちは僕が人を殺したと言った。誰かは僕が行方不明になったと言った。また違う誰かは僕が自殺したとも言った。それもそうで、ここ数か月間僕を見た人は誰もいないし、郵便物は溜まっていた。スーパーマーケットに注文もしなくて、新聞はずいぶん前に解約して、会社の人は親知らずのせいで僕が会社を辞めたと思っていた。医師は不安神経症だと証言して、帽子をかぶったスーパーマーケットの青年は物をそのまま置いていっただけで僕を一度も見たことがなく、その配達さえ途絶えてずいぶん経つと証言した。警察は羽が飛び交う僕の部屋で何かの手がかりを掴もうとしていた。靴も脱がずに僕の空間に侵入して、あまりにも堂々と僕の机をひっかき回して、僕のクローゼットを調査した。電話内訳を調べて、領収書をチェックして、トイレのせっけんと歯磨き粉の跡をチェックして…… 僕は診断されているような気分になった。誰に?なぜ?

色んな人の話によると、僕は不安神経症に耐え切れず、会社を辞めて、家を出て、広場に靴を捨てて、衝動的に少年を殺した後、どこかに逃げたというストーリーになった。少年たちが倒れていたところで、僕の指紋と血のついた足の痕跡が発見された。僕が助けようとした少年の一人は死んで、一人は失明して意識は混乱していた。少年は目が覚めると、たまに翼の話をするらしい。しかし、誰も少年の言葉を信じなかった。真実は信じたい事実と論証可能な仮説に置き換えられた。そこに僕はいなかった。呆れたことに、僕は消えていた。誰からも。どこからも。僕が住んでいた痕跡は全て消え去り、僕は侵入されていた。

僕は森の中にいた。マンションの後ろを囲む山を越えると、反対側には山の下に公園があった。住みやすい新都市らしく、なかなか広い公園だ。小さいが湖もあり、芝生と木々に囲まれた遊歩道、自転車のレンタルショップ、子供たちのための遊具、そしてところどころに置かれたベンチがある。遊歩道の端に面する森の中に、僕はいた。山林保護区域に指定され、人が入るのが禁止されている場所に、人の僕が住むことになった。深夜、公園からこっそりベンチを一つ持ち込んできたが、雨宿りはできなかった。初めて雨が降った日はぶるぶる震えながら重い翼を引きかぶせて夜を明かした。全身がしびれて翼が震えた。それは始まりに過ぎなかった。遅い梅雨が本格化してからはあちこちで雨宿りをしてみたがどうしようもなかった。僕は疲れていった。熱が上がって体中が熱くなった。

「ああ, ニュースに出た人だ!」
誰かが独り言のように呟いて、僕の額に手を当て、僕を抱きしめて飛び上がった。やっと半分目を開けてみると、彼にも、翼が、あった!
彼は僕を彼の居場所に連れていって、寝かせて、薬を飲ませて、着替えさせた。僕は彼と飛び上がってから気を失い、どの道を使ってここに来たのか分からない。深い森の中だった。
「ニュースで騒いでいましたね。有力な容疑者が消えたと」
彼はにやりと笑った。返事する意欲もなかった。
「生き残った子、自殺したんですって」
「え?」
固唾を飲み込んだ。
「自分が見たことを信じてくれない世界に初めて会ったでしょうね」
彼はまたにやりと笑った。

ずいぶん前に亡くなった祖父母のことを思い出した。両親の代わりに僕と妹を引き取って育てた祖父は、人をむやみに助けるなと教えた。戦場で戦友を助けていたところ、自分が捕まって死ぬところだった経験に基づいて話したことだが、祖父の言葉は正しかった。

「警察側では君の自殺可能性を流布しているようですね。そうすると、人が安心するから。残念だけど… 間もなく停止処理されるでしょう。一度や二度ではないから」
「停止処理って、それはどういう意味ですか?」
僕は長い椅子に斜めにもたれて、風邪薬に朦朧として聞いた。驚くにも疲れすぎていた。
「消えた人がいるのに、見つからない。確かに死亡した痕跡もない。その上に、物議を醸すほどの殺人事件に巻き込まれた。証言者がうわごとのように翼の話をする…」
「それは事実とは違います。殺人ではありません」
彼は分かっていると言わんばかりに、手を持ち上げて僕の話を遮った。
「分かります。でも、それは事実とか物事の始末とは関係ないですから。とにかく、失踪後、一年が過ぎたら停止処理です。住民表に記録はありますが、停止されるのです。その人が記録上停止されるということですね」
頭の中がぼうっとしていた。
「あの、先、一度や二度ではないと言いましたよね。ということは、僕の他にもいるということですか?」
彼は突然大きく笑った。
「自分だけが特別になったと思わないでくださいよ。それが人間の敵ですけどね。まあ、僕も人間ですけど」
彼はもうすぐ停止状態になると言った。記録上、どこにもいない人だ。そして、また僕もそのような人になる。彼の話では、世の中にはそういう人がかなり存在しているようだ。全ての人が翼がついているわけではないが、彼の場合も翼がついているからだ。そして、彼は翼があっても仰向けに寝る方法も教えてくれた。簡単だ。そのまま横になればいい。今まで僕は翼に負担を感じていた。僕の体と一体するものではないと思っていたから。しかし、翼が体の一部と感じられれば、その時からは完全に自分のものになる。そして、それほど、僕はどこにもいない人に近づいていく。

僕は服を着ることもできるようになり、翼を自由自在に扱うこともできるようになった。しかし、停止された人として生きるのが良いのか悪いのか、まだ区別が付かない。彼が外出する支度をするようにと言った。長い外出になると。
すっかり夏の訪れを感じる夜だった。遠くからの風がそよそよと吹き、草の虫の鳴き声が耳元に届く。遅い梅雨が明けて、高く澄んだ空はその深みが分かるほど見通しがいい。丸く満ちていく月が夜を明るく照らし、あちこちに夏の星座が光を放つ。深夜になると飛び上がり、かなりスピードを上げて飛んだ。夏の夜は飛ぶのに適当な温度と風を与えてくれる。
飛んでいる間、彼は色んな話をしてくれた。主に翼を持っている人間として生きていくための規則みたいなものだ。
「人の前では絶対に飛ばないでください。動物園に連れていかれるかも知れないですよ」
彼が言った最も重要な規則だ。

森に着いたのは明け方に近い時間だった。木々が生い茂っている森の上を通過して、かなり奥の方に入ると丸い草原が現れた。森の果てが見えそうで見えないところだった。風がどこからか塩辛い匂いを運んできた。近くに海があるようだった。風が水気を含んでいる。けっこう長い道を飛んできて疲れていたので、ここからはゆっくり歩いた。朝が明けるのを肌で感じるのはいつぶりだろう。僕は感傷に浸かっていた。彼は鼻歌を口ずさみながら先頭に立って歩いた。そして、草原を横切って森が始まるところに近づいた時、人の姿が見えた。一人、二人… 翼を持っている人たち。彼らはみんな、同じく、眩しいほど白くてきれいに手入れした翼を持っていた。彼らの目に僕の翼もそのように見えるだろうか。森が終わるところに近づくと、翼の数が増えて、波の音が近くなった。そして、森が終わるところに立つと、世界の全てがうっすらと青く、白い光に包まれた。みんな、背中に翼を持っている人たちだった。みんな青くて、みんな透明に輝いていた。

丘の下に集まっている人たちの間に、遠い波の中から太陽が昇り始めた。霧を割って昇ってくる鮮やかなピンク色。ほのぼのと広がるオレンジ色。霧がかかったワイン色の太陽が世界を照らす。海辺に集まった人たちの背中の隙間から太陽が差し込み、彼らを赤く染めていく。赤色に染まった無数の銀色の翼が風になびく。この荘厳な風景に僕は見惚れていた。そして、彼らのように赤く染まっている自分の翼を眺めた。
儀式だ。この社会の中で、匿名であるが確かに存在していた一人の個人としてのアイデンティティが消える日。停止の日。一年後、僕が立ち会うことになる風景。一つの世界から、また違う一つの世界への移動。同時に存在するが、異なる世界。僕は今、橋を渡ってきたのだ。人生のある地点から別の地点に向かって。その事実が肌で感じられた。くっきりと。
その朝、僕は彼を見失った。僕を助けてくれた男はどこかに消えた。翼を持っている人たちがその場を去る時、海辺から離れ始める時、多分彼らと一緒に帰ったようだ。彼らはみんなどこに行ったのだろう。


痛い!痛いよ、おちびちゃん!触っちゃダメ。さあ、本日のイベント!天使スーパーの特別イベントです。後2時間ですよ。あ!ちび助、風船もらっていきな!痛い、触らないでください、お嬢さん!食品は地下の右隅です!
街に人々がなだれ込む。特別セールが2時間残っている。人出が増える時間だ。僕が忙しくなる時間。天市スーパーの「本日の割引情報」が載っているチラシを配り、子供たちに天使スーパーのロゴである天使模様が押された風船を渡し、案内役を兼ねる。僕は天使に変装した天使スーパーの広報バイトだ。みんな、翼は本物だと言う僕を面白い人だと思っていた。誰も事実を本当のことだと信じなかったし、僕のことを頭が少しおかしい人だと、それくらいに思っていた。

その日、その海辺で僕は方向を分からなくなってしまった。結局、誰もいないところで誰でもない人になって一人残った。僕は家を出る前と同じく、海辺の近くの森に住んで、夜になると飛んで近くの小さな都市に行った。そして、この都市の中心部で噴水を見つけて、たまにそこでシャワーを浴びたり、気持ちを落ち着かせた。しかし、涼しい風が吹いて、その風が徐々に強くなり始めると、森での生活は再び厳しくなった。時間が経つにつれて、人のことを思う病気にもかかった。人恋しい。どうしても人が見たかった。話をしたいし、最近は何が起きているのかも気になった。僕は勇気を出して、人の前に出ようと決心した。

風が吹きすさぶ夜、森を離れた。狭い国道を歩いたり飛んだりして、そうして到着したところが、今僕がいる海辺近くの小都市で、人に囲まれているこの街だ。街の人々はくたびれて大きな翼を持って歩いている僕をちらちら見た。見知らぬ都市の見知らぬ道に座っていると、人が僕を避けて遠回りするのが目に見えた。僕は人ではなく、汚い獣になったような気がした。
そうやって中心街をうろついている間、壁に天使が描かれた新しい建物の前に足を止めた。大型スーパーマーケットだった。祝開店天使スーパー。見上げた屋上から垂らした垂れ幕に書いてある文字と絵。ファンファーレが鳴り響き、色とりどりの紙が花びらのように空から降りてきた。
その日からここが僕の家になった。半気違いのように扱われ、給料もほとんどもらわず、分厚いチラシの袋を持って、風船の入った箱を持って、道に立つ。そして、人々に本日の広報チラシを配って、子供たちに風船を渡す僕の仕事をする。人々は僕のことを翼に執着する人だと思い込み、それ以上の特別な問題を起こさない僕を放っておいた。翼は僕の付き物のような服装として認知されていた。そうやって、ここの1坪くらいの湿っぽい地下室で晩秋を迎え、ひときわ寒くて雪の多い冬を過ごし、春を送り、夏を迎えようとしている。

最近もたまには夜を飛んでみる。こんな風に歳をとっていることを、こんな風に生きていることを、鳥肌が立つほど不思議に感じながら。少しの虚脱感と諦念を持って。そして、もうすぐ1年になる。1年が経つと、僕は永遠に停止状態になる。本当にどこにもいない人になるのだ。確実にここにいるにも関わらず。1坪の地下室を占めて、翼をつけているおじさんとして、僕のことを覚えるちびちゃんが何人かいても、僕はどこにもいない人だ。
その間、どこかに帰ろうと色々考えてみたが、まだどこにも帰ることはできなかった。そうして僕は相変わらずどこにもいない。

ー The End ー

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