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【短編小説シリーズ】セラセラハウス 105号室:好雨

105号室
好雨

ポツンポツンと雨が降り始めた。居月涼介はカッパを取り出そうかと迷ったが、もうすぐ着きそうでそのままペダルを漕いだ。23時を過ぎた住宅街には人影もなく、雨音だけが静かに道を叩いていた。配達用のバックが濡れる前に届けないと。自転車を漕ぐ涼介の足に力が入った。

涼介は目的地に着いて、もう一度マンション名を確認した。そう言えば、先通り過ぎる時見たら、近くの駅前にも同じチェーン店があったのに、なぜ隣駅のチェーン店に注文したのかよく分からなかった。まあ、涼介とは関係ないし、どうでもいいことだけど。

その1分後、どうでもいいことではないことが起きるとは想像もしないまま、涼介は105号室のインターホンを押した。反応がないので、2回押した。スマホを取り出して、配達先の住所とマンション名、部屋番号を再度確認した。間違いない。3回目。ピンポン。

しばらくしたら、ドアの向こうから人の気配がした。そして、やっとドアが開いた。テイクアウト用の容器に入っている定食セットを渡そうとした瞬間、どっさりと、涼介の目の前から人が消えた。

一瞬何が起きたか理解できず、涼介は閉まったドアの前に立っていた。定食セットを持った手はドアの中に入っているままだった。勢いよく閉まったドアに挟まれた腕が痛い。

「失礼します」
ドアを開けると、暗い玄関のところに人が倒れていた。

「大丈夫ですか?」
涼介は中には入らないように気を付けながら声をかけてみた。反応がない。配達バックを降ろしてドアを止めて、スマホのフラッシュライト機能を使って倒れている人の様子を確認した。はあはあと息をしていることから、死んではいないことが分かった。胸をなでおろした。

「救急車呼びますね」
とりあえず報告した。
「え?救急車…って何番だったけ?」
肝心な時こそ思い出せないものがある。涼介は検索サイトのアプリを開いた。

「…1…1…9…」
答えたのは女の子だった。
「…呼ばなくても… 大丈夫…です… めまいが…」
「起きれますか?」
「ご、ごめんな…さい。電気… 左…」
女の子は電気をつけてほしい、と言っているようだった。涼介は手探りでスイッチを見つけて押した。いきなり明るくなったからか、女の子が目をつぶった。

「…小野寺?」
玄関を横切るように倒れている小野寺美帆がドアを開けたまま廊下に立っている涼介を見た。
「…居月?」
二人とも黙ってしまった。雨が強くなってきたのか、ザザと雨音が変わった。

「それでよくも生きていたな」
「からかわないでよ」
キッチンでお湯を沸かしている涼介の耳に、部屋の方から美帆の声が聞こえてきた。力のない声だ。涼介は今自分が何をしているのかよく分からなくなっていた。

まさか配達先で大学の同期に会うとは思わなかった。近くの大学に通っていて、近くに住んでいて、近くで配達のバイトをしているので確率はゼロではない。

話を聞いてみると、美帆はここ一週間ご飯を食べていないようだった。先週の水曜日からいきなりご飯を飲み込めなくなったと、美帆は言った。ダイエットではない。

お腹も空かない。何か食べようとすると飲み込めず吐いてしまう。熱はない。風邪でもない。それが一週間続いたのだが、夕方からいきなり無性にお腹が空いて、初めてデリバリーを注文してみた。これが、美帆の話。なぜ食べられなくなったのか、理由は言わなかった。

「はい、どうぞー」
涼介はスープが入ったコップをベッドの中にいる美帆に渡した。
「ありがとう」
美帆がベッドの上に座って、スープをフーフー吹き始めた。

涼介と美帆は近くにある大学の経済学部の4年生だった。もうすぐ卒業する。世の中が異常な状態なので、ここ一年は学校に行くこともなく、3月の卒業式もどうなるか分からない状況だった。

同期だとは言え、涼介と美帆の接点はほぼなかった。美帆は明るくて、友達に囲まれて、楽しそうな<ザ・キャンパスライフ>を過ごしているような学生で、涼介は学校の図書館に閉じこもって、いるかいないか分からない学生だった。美帆が涼介を覚えているのが不思議なくらいだった。

「雨が止むまでいてくれませんか」
なぜか泣きそうな美帆をほっておくことができなくて、涼介はそのまま残った。

「ね、居月は就職先決まった?」
「いや…」
「…一緒だ」
美帆が言った。涼介は大学院への進学が決まっていた。それを今言うと美帆が傷つきそうで、言わなかった。
「大変な一年だったね」
それだけ言った。

返事がないので、美帆の方を見ると、いつの間にか眠っていた。そろそろ帰ろうかと思ったが、雨が足を止めた。雨が止むまで。涼介は壁にもたれて座った。

美帆の部屋には本が多かった。インターネットの歴史からIT企業の経営、SNSマーケティング、アクセス分析、SEO、プライバシーポリシー関連書籍、資格取得のための参考書まで、様々な本が本棚にぎっしり詰まっていた。涼介が思っていた美帆のイメージと違った。勘違いして、勘違いされる。それが他人というものだと、涼介は思っていた。それが、今なぜか少し悔しい気持ちになっていた。世界が静かに揺れている気がした。

涼介はVUCAという単語を思い出した。卒業論文を書く時に調べた資料で見た。Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の頭文字で、今の社会・経済・個人の環境が予測できない状況に置かれている要因をこの四つの単語から探ろうとする現代認識の一つだった。まさに。涼介は突然その単語一つ一つに覆われている気分になった。卒業まで後一か月。その間美帆の就職先が決まることはないだろうか。涼介だって一日中自転車を漕いでも、まだ学費の半分も集めていないところだった。

時計は深夜1時を回っていた。雨は止む気配もなくだんだん激しくなっていた。風も強まっていた。美帆の部屋は暖かく、微かに聞こえる雨音は子守唄のようで、一日中自転車を漕いだ涼介の疲れた体も眠くなってきた。涼介は壁にもたれたまま眠りの中に吸い込まれていった。今夜の全ては止むことを知らず降り続ける雨のせいにしておこう。


― 好雨、降るべき季節を知って ―


※「好雨」というタイトルは、杜甫の詩『春夜喜雨』の中の<好雨知時節>から持ってきました。

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