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【短編小説】MISSING 1.翼、Flying

空を飛ぶ夢を見る。それはどういう意味だろうか。重力を軽く遡って空を飛ぶ。空気が割れて髪の毛がひらひらとなびく。そして夢は青色に変わる。視界の中には青空が果てしなく続くだけだ。朝になって目を覚ますと、窓の外に青空が見える。生まれたての空だ。一晩中、僕はあそこを飛び回っていただろうか。ぼうっとしているうちに、また眠りにつく。そしてまた空に飛んでいく。ゆらゆら…

この頃は眠りにつくのが怖い。睡眠の通路に足を踏み入れた瞬間、必ず現われるその青色がうんざりするほど長い。起きると肩が痛い。鳥たちも飛ぶ時は肩が痛いだろうか。疼くような痛みが肩から降りてきて鳩尾に残る。まるで一日に二日を生きているようだ。夜はもう休憩ではなくなり、朝になるとまた疲労に覆われる。今日は脚までしびれる。

「私に会うと、疲れるんですか?」
彼女が話をしている。だが、どうしても集中できない。彼女が並べる単語を追って頭の中を動かしてみる。つ…か…れ…る…ん…で…ぇ…す…ぅ…か…ぁ… 過剰に伸びたテープのように単語は意味を持たず、脳への進入を遮られる。
「そしたら、もういいです。無理して会ってくれなくても」
彼女は唇を噛みしめて、泣きそうな顔になる。
「もう連絡しません。今まで…… ふーーーう……」
彼女は長いため息をつくと、カバンを掴んで、涙ぐんだ目で出ていった。立ち上がらなければ… 何か答えなければ… しかし、僕の唇は一向に動いてくれない。体は強張っていて、頭はもっと強張っていて、僕は冬の野原を守る季節はずれのカカシのように俯いて座っているだけなのだ。睡魔に襲われようとしている。何年ぶりに始まった恋愛なのに。僕みたいなやつに、電車の中で一目惚れして、散々悩んだあげく告白してくれた、この時代には珍しい、ありがたく思うべき女(ひと)なのに…… とは言え、彼女がいないからといって僕の生活が変わるわけでもない。それより、今は眠いだけだ。眠るのが怖くても眠いだけだ。ようやく身を起こして、勘定をして、喫茶店を出て、家に帰る。今日が日曜日であることがどんなに幸いなことなのか。どうか早く寝ることができたら。夢を見ずに寝ることができたら。

睡眠と恋愛を天秤に掛けてみる前に、睡眠を選んだやつに幸運の女神は微笑みを見せてくれなかった。また、ここは空だ。どうしてそんなに休むことも知らず飛ぶのか、夢の中の僕は疲れることもない。スーパーマンのように両腕を前に伸ばして飛ぶのではない。腕はおとなしく背後に広げて、今は角度を調整する飛び方まで知っている。夢の中の僕は天才的な魔術師のようだ。ああ、起きたらまた肩がかなり痛いだろうな。

「先週の日曜日の夕方からでした」
「患者さんの肩には何の異常もありません。あ、何の異常もないから患者だと言うと失礼でしょうか。ハハハ」
温厚な印象の中年医師は、冗談とは思えない冗談を言い、自分のユーモアに満足げに笑った。
「痛みがない時は、我慢できないくらい痒いです」
と言いながらも、僕は背中が痒くて噴き出しそうな笑いをこらえるために手で口を塞いだ。
「レントゲンにも異常はありませんし、超音波検査にも、CT検査にも何の異常はありません。念のためアレルギー検査もしてみましたが、それも異常なしで」

ボールペンでチャートをぽんぽん叩いている迷宮入りの医者の表情に、僕は失望して何か言い返したかったが、一瞬、思わぬ笑いがこぼれて、口を塞いだ指の隙間を弾け出した。笑いとともに出てきた唾が医者の顔に飛んだ。医者は顔が強張って、僕は謝りたかったけど、くすぐったくてこぼれ出る笑いを止めることができなかった。僕は困った顔をして、狂ったように笑い出した。僕の笑いがおさまるのを待って、医者は硬い表情で言った。
「ええっと… うちより神経精神科に行ってみてはいかがでしょうか」
医者は続けざまに咳払いをした。そして、大きな声で看護師を呼んで、診断書を渡した。
「所見書を書きましょうか」

診断書をふんだくって病院を出た。数日前から肩の方に変な痛みが始まった。肩が切れそうに痛くて、たまらなくくすぐったい。僕は一人で部屋の中をごろごろ転がりながら笑った。笑いすぎて顔が赤くなり、息が詰まるくらいだった。そして、また始まる痛み。しかし、病院では何も語ってくれない。もう三つ目の病院なのだ。
仕方なく神経精神科を訪れた。今度は僕の方の顔が赤くなり、咳払いをした。なぜか神経精神科という名前は耳慣れないもので不快なのだ。こんなことなら所見書を受け取ってくればよかった。
「最近、ストレスが多いですか?転職とか離婚とか…」
「申し訳ありませんが、僕は5年間同じ職場で働いていて、結婚はしていません。上司の嫌がらせもないし、給料に不満もないし、家の周りがうるさくもないし…」
医者は僕の症状を聞いて肩の方を調べると、僕が生きてきた道をたどり始めた。しかし、何もない。特別なことは何もない。医者は医学用語か哲学用語か分からない言葉を交えながら長々と説明をした。しかしながら、その結論は「まず薬を飲みながら様子を見てみましょう」に縮約された。僕にはそれが「分からない」と聞こえた。気落ちして外に出た。

兆候が現れたのはその日の未明だった。いつまでも続く空を飛ぶ夢のせいで眠れないまま、眠たい目をしてケーブルテレビを見ながら座っていた。どういう映画なのかも頭の中に入ってこないまま画面を眺めるだけだ。うっかり寝落ちすると青くなる。空はどうして青なんだろう。もう青も飽きた。その時だった。肩甲骨の方が痒すぎて、僕はまたリビングの床に寝転がって笑い出した。うははは。キーキー。フフフ。キヒッ。ハハハ。こんなに笑っては息が詰まって死ぬかも知れない。
そして、痒みも笑いもおさまった頃、僕は体の変化に気が付いた。背中に異常なことが起きているのだ。僕は急いでTシャツを脱いで、鏡をぐるっと見渡しながら背中を観察した。ところで、何のことだ!あれは何だと言うものなのか。白く生えている「あれ」、若芽のような「あれ」は!それは肩の下、背中の肩の付け根に居ついていた。僕は注意深く手を近づけてみた。近くに手が届くと、鏡の中は手でいっぱいになった。鏡に近づいて、左の方に体を回して肩の付け根の下を観察した。手を伸ばして注意して触ってみた。くすぐったくて思わず笑ってしまった。これが痒みの正体なのか!柔らかい。まるでシルクのようだ。その感触が嫌いではない。しかし、これは何というものなんだろう。爪のように、左肩の付け根にあるこれは!親知らずが生えるように肩の下をこじ開けて生えているこれは!

意味もなく親知らずが浮かんできた。少年時代、左上と左下に同時に親知らずが生えてきた。告白もできずに終わってしまった初恋の女の子と同じ症状だった。歯科の待合室に座って、お互い見えないふりをして、一言もしゃべらなかったが、こっそりあの子をのぞき見しながら、子供心に僕たちは見えない糸で繋がっていると信じていた。しかし、女の子は両親の転勤が決まり、ある日ふらりといなくなってしまい、僕は一人で歯科に残った。全てのことは予定通りに進んでいったが、その日の以前のこともその日の以後のことも僕には知る由もなかった。この世界のちっぽけな何一つさえ自分でコントロールできないという無力感と無気力感。
わざわざ親知らずを抜かなかった。敵わないことに対して幼い僕にできる小さな反抗。ひりひりする痛みが伝わる度に、僕は初恋を見送り、この世界が歪んだような気持ちで痛みを堪えた。それでも、頬の方に向かって大きくなり始めた親知らずは結局抜かれてしまった。行き去ったもののように。身に染みる寂しさと疲れと寒さ。寒い冬だった。
そんなことを考えている場合ではない。肩の付け根に出ている柔らかいこれは何だろう。
こうして始まった左側の柔らかくて白い兆しは2日後に右側にも始まった。それから1週間が経つと、少しずつ姿を現した。白くて、柔らかくて、だんだん大きくなっていくそれは!

翼だっだ!翼!
唖然として、口が開き、言葉が詰まり、世界がぼやけ、続けざまにため息をついた。こんなことはなぜ起こるのか。なぜ僕に?これはあり得ることなのか?トップニュースに出るか、ギネス世界記録に記載されるべきではないか?
少しずつ翼が伸び始めてから、服を着るのも不便になった。ノートくらいの大きさになると、服を着る時にばれそうになった。だんだん暑くなるにも関わらず、僕は上着を脱がなかった。しかし、これは成長するにつれ、力が強くなっていった。こう言うと信じないかも知れないけど、翼も息をする!成長するにつれ、真っ直ぐに自分の位置を決めていく。肩の下にぴったりと降ろしておいても広げようとする。まるで息苦しいとデモでもしているようだ。どうしろというのか。僕は会社に行って、人に会って、受注するために努力をしなければならない。そうすることで、ご飯を食べて生きていける。

しかし、翼が17インチのモニターの大きさになった時は、会社を辞めるしかなかった。電話一本で、僕は仕事を失う羽目になった。ある日の朝、目を覚ますと、翼はきちんと位置を決めて、自ら広げて畳む練習をしていた。自分の頭でコントロールできない。どうして自分の体の中に入っているものをコントロールできないのか、理解できない。結局、服を着るとくにくに動き出し、ワイシャツを5枚も破ってしまった。僕は大汗をかきながら出勤準備をしてみたが、病院に寄って遅くなると会社に電話をした。だが、午後には電話で退職の意思を伝えた。理由は親知らず。大した問題もなく5年も務めていた職場を、しかも昇進前に、親知らずのせいで辞める愚か者なんているだろうか。誰がそれを信じるだろうか。色んな憶測と誤解が飛び交って、目の前の人事異動に有利になると、そんなことを考えているのだろう。こうなることなら、もっとゆっくり働いてもよかったのに···。

結局、家の中では上着を脱いで暮らすことになった。インターネットで必要な物を調達して、宅配便の配達員にはドアの前に置くように携帯電話で連絡しておく。食材はマンションの団地内にあるスーパーマーケットに注文して、配達員が帰ってから廊下に通りかかる人が誰もいない時に急いで中に入れる。必要な決済はカードやインターネットバンキングを利用して、電気代なども自動振り込みに変えて、領収証もメールで受け取る。この時代には、人が家の中だけでも生きていけることを学んだ。それでも、まったく… これは、何という青天の霹靂なのだろう。ため息が止まらないのでタバコを吸うと、翼が肩を締め付けてくる。タバコが嫌いらしい。悪い奴。全部こいつのせいなのに。

夏に入ると、翼はビーチタオルくらいの大きさになった。もう成長が終わったように、若々しくて柔らかい羽がゆらゆらと動いている。白鳥になった気分だ。白い翼をつけて飛翔していたビリー·エリオットを思い浮かべながら鏡を見るとかっこいいと思ったりもするが、やはり不便だ。シャワーを浴びる時も、テレビのチャンネルを変える時も何かが付いている感じは拭えない。特に寝る時が一番問題で、翼のために枕に顔を突っ込んでうつ伏せになって寝なければならない。たまに落ちた羽が飛び回ったりもする。枕投げでほころびた枕の中の羽のように、あちこちに羽が飛んでいる。一つ幸いなことに、翼が大きくなってから空を飛ぶ夢が止まった。夢を見ずに眠ることができる。でも翼だなんて!僕の人生が嘆かわしくなる。僕が望んだわけでもないのに、これは不公平すぎないか?これも夢であることを願ってみたが、テレビをつけると日は変わっているし、時計も動いている。何より夢ならこんなに長くはないだろう。一か月以上、夢の中にいるはずがないから。

僕は軽いうつ病になった。夏の真っ只中だった。会社を辞めてから、誰も僕を探したりはしなかった。配達員の他に、ドアのベルが鳴ることも、電話が鳴ることもない。沈黙。また沈黙。今までの僕の人生は何だったんだろう。僕に外の人生があることはあったのだろうか。ブラインドの外の世界が現実感なく崩れ落ちる。
夏にはみんな早く寝ようとしない。窓を開けることもできず、ブラインドで部屋を隠して家の中を歩き回った。ご飯もあまり食べず、シャワーも浴びず、長く患っていた。冬が来る前に、僕はやせ衰えて死ぬかも知れない。たぶん骨だけがベッドの上に残っているだろう。誰か見つけてくれるだろうか。結婚した妹が訪ねてくることはあるだろうか。ああ、彼女は海外にいるのだった。会社で退職金の処理のために人が来るんじゃないかな。スーパーマーケットに電話をしておいた方がいいかな。警備のおじさんにインターホンをしてみようか。牛乳を申し込んでおこうか。牛乳が溜まったら、人がドアを開けてみることもあるのではないか。そんなことを考えている間、眠りについたようだ。

久しぶりに涼しい風が感じられた。空気が違う。雨の日に間違って乾かした洗濯物の濁りもなく、油で汚れたガスレンジの湿りもない。薄暗い光があるようで、そよぐ木の葉もあるようだ。息をするのが少しは楽だ。気持ちいい夜だ。そう、夜みたい。 そ、っ、と、目を開けてみた。
あ!ここは、外だ!
羽がぷるぷる揺れている。笑っているようだ。こいつが連れて来たのか?それは、僕が飛んだっていうこと?ところでここはどこだ?月が近く見えることから考えると、高い所のようだ。起きて角の方に行ってみる。見慣れた商店街が見える。僕が住んでいるマンションの屋上みたいだ。僕が飛ぶなんて!夢の中であんなにたくさん飛んでいたのに、一瞬ぴりっとする。背筋に沿ってひんやりとした神秘さが通り抜けていく。翼がいたずらのようにこっそり笑っている気がした。そこに立って、ずいぶん長い間外にいた。そして、月が消える頃、遠くから群青色の朝が来ようとする時、家に帰ってきた。人の目につかないように静かに。まだ歩く方が慣れているので階段を使って家に帰ったが、鍵がなくて、飛んでベランダの窓から入ってきた。肺の中に清い始まりが流れ込んできた。何か始まろうとしている。それを感じることができる。は、じ、ま、り、だ。

ー 続く ー

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