サンタモニカへ行きました。③
ターニングポイント
わたしがCAとなったのは、就職氷河期の真っ只中のことだった。今から二十年以上前のことだ。正社員ではなく、契約社員としての採用だった。
子どもの頃から弟妹の面倒を見てきたこともあり、将来は小学校の先生になるつもりでいた。だが大学一年のとき、父親が病で倒れた。
「いいのよ、そんなに勉強好きでもないし、どうしても先生になりたかったわけでもないし」
そういって大学を辞めた。父は電気工事士として土日関係なく働いて家族を養ってきたが、もうそういう無理はできない。かおりは長女で、まだ弟も妹も控えていた。この決断を後悔したことはない。
社会人として初めての職は、派遣社員として羽田空港のカウンターで旅客の応対をする仕事だった。あるとき派遣の同僚から、日本空輪がCA職の募集をしている、「一人だと心細いから一緒に受けようよ」
と誘われた。
「CAって客室乗務員?」
それまでそんなことを考えたこともなかった。だが、CAになれる可能性がある、と知らされた途端、ユニフォームを纏った自分の姿が頭に浮かんだ。ピンと来たのだ。今思えば、あの時、わたしはターニングポイントに立っていたのだ。
CAとして乗務を始めると、かおりはめきめき頭角を現した。
「羽生(かおり)さん、既卒入社と聞いたけど、以前もCA職?」
と先輩CAから驚かれた。それくらい自然に身体が動いた。自分でもこの仕事に向いていると思った。
CAの仕事は、人助けすることだとかおりは思っている。緊急時はもちろんのこと、接客に関しても、やはり「人助け」なのだ。窮屈な機内で長時間滞在する旅客が少しでも心地よく過ごせるように「助ける」、そういう気持ちで接していると、旅客の求めていることがよく見えた。
当時の制度では、契約CAは三年経つと正社員CAになれた。わたしも、順調にそのレールに乗った。「おや?」と思うようになったのは、三十を過ぎた頃だ。その頃には、既に半分以上の同期が退職していた。残っている者は昇進したり、他部署に異動して行った。奈津子もそんな一人だった。
だが、かおりには声がかからなかった。仕事ぶりに関しては、毎年の人事考査で常に高い評価を得ていたのにもかかわらず、だ。
あるとき、ロッカールームで、後輩たちの会話を耳にした。
「知ってた? 羽生(かおり)さんって高卒なんだって」
「へぇ、未だにそんな人いるんだ。ああ、だから上に行けないんだ」
社内規則では、大学を一年で辞めた場合、中退ではなく高卒と同じ扱いにされる。大卒が当たり前の中で、そうでないとこういう足かせをつけられるのか、と思い知らされた。それでも大企業に勤めさせて貰っているのだから、有難いと思うべきなのかもしれない。いや、そう思うことで自分を納得させていた。
一方、奈津子は、子どもの頃からCAになりたかったクチだ。英語もそのために短期留学して学び、CA養成校にも通った。それなのに新卒時の就職活動では片っ端から蹴られた。それでも諦めず、派遣で繋ぎ、既卒募集でようやく夢を叶えた。
奈津子はCAになると、オフ日でも、「いかにもCA風」の化粧をし、ユニフォームのような装いを好んだ。外見だけではない。いつか、仲よし五人組で旅行したとき、奈津子が使ったあとにトイレに入ると、トイレットペーパーの先の部分が三角に折られていた。
「やだ、奈っちゃんたら、トイレチェックの癖がついてる!」
と皆で大笑いした。機内のトイレは、掃除し終わったら、旅客がペーパーを使いやすいように、端を三角に折るように指導されている。
奈津子は何で笑われるのか分からず、少し憮然とした顔をした。確かその時だ。奈津子が「サービスの奥の深さ」について蕩々と語ったのは。皆、しらーっとしたが、奈津子が余りに真剣なまなざしで熱く語るので、黙って聞いた。
そんな奈津子だったのに、三年経ち、正社員契約に切り替わった辺りから、「いつまでもおしぼりを配ってられないわ」といったセリフを吐くようになった。あんなに憧れていたCAになれたというのに、今度はどうやってCAから抜け出せるか、と模索し始めたのだ。総合職転換を狙ったこともある。これは上手く行かなかったようだが、サービス関連のプロジェクトには幾つか参加したようだ。上昇志向が強く、そのために敵も作っていた。色仕掛けをする、という噂も耳にした。
かおりは、奈津子がCAという仕事の本質を勘違いしていたのではないか、と思う時がある。笑顔を振りまいて旅客を喜ばせる、それがサービスだと勘違いしている人は、少し経つと場末のホステスのような臭いを放つようになる。自分の尊厳を損なってしまうのだ。かおりは、奈津子がどこか汚れていくのを感じずにはいられなかった。奈津子はそんな自分が嫌になってしまったのだろうか。
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