サンタモニカへ行きました⑥

Awakening~目覚め 

 次の日、近くの大学で日本語を教える浩美は、午前中の授業を受け持っていた。そこで、ビーチで行われるヨガ・クラスに一人で参加してみることにした。
 これは全く予定外のことだった。前日、砂浜で仏像のように座禅を組んでいる人達を見かけた。浩美に訊ねると、
「ああ、あれ、ビーチ・ヨガね。気持ちいいのよ」
わたしが興味ある顔をしたのだろう。浩美は気軽に参加できるグループを知っているといい、その場でメールを幾つか遣り取りして、かおりが参加できるようにアレンジしてくれた。
「登録とかしなくていいの? 突然参加なんて迷惑じゃない? レッスン料は?」
と心配するが、浩美は、
「大丈夫よ、ご近所グループの人達が適当に集まってやっているだけだから」
と笑った。区のヨガ教室では、健康診断書とウィルス関連の承諾書を提出し、登録料も参加料も支払ったというのに。あまりの違いに苦笑を漏らしてしまった。
 見知らぬ土地で、一人で参加することに緊張感を覚えないこともなかったが、ここ数日は、不思議と行動力があった。急にサンタモニカへ行こう、と決めたことも、慎重なわたしにしてみれば珍しいことだった。いつもなら、電車や飛行機の遅延があったときのことを考えて、一日前に帰着するように旅程を組む。だが今回は、到着した翌日に出勤という強行スケジュールだ。
 色々配慮していると動けなくなる。今まで、あっちに気遣い、こっちに遠慮して、周りに迷惑をかけないように生きてきた。正直者がバカを見る世の中だが、「バカにされてもいい、真っ当に生きろ」という、昔気質の両親から育てられた。フライトに穴を開けたことはない。クレームもなければ、大きな失敗も犯したこともない。逆に、「親切にしてもらった」「配慮が行き届いたサービスだった」「手際がよく快適に過ごせた」といった御礼状なら何通貰ったか知れない。
 なのに挙げ句の果てが、四十三にして転籍だ。バカを見るとは、まさにこのことではないか。せめてこの六日間の休暇は自由に使おう、と心に決めていた。自由に、心が赴くままに動くのだ。
 ヨガ・グループのリーダーはスティーブという、白髪がきれいな男性だった。かおりがたまに顔を出す区のヨガ教室は、インストラクターも含め全員女性だ。こちらでもそういうものだ思い込んでいたので、男性の登場に少し驚いた。グループは十人程で、大学生のような人もいれば、かなり高齢と思われる方もいて、スティーブの他にも男性が二名いた。肌の色に至っては、白から黒までの全てのグラデーションがある。レベルも多様で、スティーブの「できないポーズがあれば、無理しないで。きついと思ったら、自分で判断して休んで」という声かけに従い、殆どの間休んでいる人もいれば、先に高度なポーズに移る人もいて実に自由だった。
 それを見て、わたしもいつもは無理して続けるダウンドッグのポーズを短めに切り上げ、休んでいる間は、正座をして海を見つめることにした。海風は冷たいが、太陽が肌を温めてくれる。海を見ていると、波が頭の中を占領していく。
 ザザザザ、ザブン。ザザザザ、ザブン。
 このリズムを何回か聞いてから、もう一度ヨガに戻ることにした。気のせいか、先ほどより頭がすっきりして、残りのセッションは自分の呼吸や身体の声に耳を傾けることが出来た。
 最後に瞑想をして解散となった。時計を見ると、浩美との待ち合わせまで時間がある。浩美にいわれたように、ビーチ沿いのカフェで休んでいていてもよかったのだが、身体が動きたい、といっていた。そこで、ビーチを散歩してみることにした。
 太陽は随分上まで上がっていたが、海から来る風はひんやりと心地よい。幾らでも歩ける、そんな気持ちにさせられる風だった。ピアに近づくに連れて人が多くなったのでその手前で引き返し、また来た道を戻ることにした。ミシッミシッと、湿った砂浜を踏みしめる感触。海に視線を向け、風に顔を晒し、波に耳を傾ける。
 沖合には波待ちをするサーファーの姿もチラホラ見えた。七番目の波は高いというが、確かに、静かな波が何回か来た後に、大きくて荒々しい波がくる。サーファー達はそれを狙っているのだろう。遠くで波が高くなり、水位が高いところで砕けていくのを眺める。実に豪快だ。だが、ふと視線を落とすと、波が近いところまで押し寄せてきていた。小波とはいえ、勢いついてしぶきを上げて迫ってくる。慌てて後ずさりしたら、無様に尻もちをついてしまった。
 いい気分でいたのに突然波に襲われた。それだけのことだ、笑い飛ばしたらよいのだが笑えなかった。何かぐったりした。予期せぬ出来事。こういうことは今後も起こるのだろう。この先、私は、それに耐えていけるのだろうか。ふと、奈津子の寂しそうな顔が頭を過ぎる。
 ゆっくりと立ち上がり、お尻についた砂を叩いた。時計を見ると、浩美との待ち合わせまでまだ三十分ほどある。かおりは、再びドスンと腰を降ろし、スニーカーを脱いで濡れた足を乾かすことにした。そして、ふと思いつき、前日に見かけた人のように、足を組み瞑想してみることにした。
 背筋をピンと伸ばすと少し気持ちもすっきりした。目の前の海原をじっくり眺めてから目を閉じる。はじめは波の音に集中した。すると、先ほどの大波が砕ける瞬間が再生される。その波の余韻がかおりの足元まで呑み込み、引いていく。小さな泡を残して引いていく。頬を触る風は冷たい。瞼に当たる太陽の温かさが身に染みる。
 波の音。風。海、そして空。
 かおりはゆっくりと目を開いた。大丈夫。心の中で、自分に確認するように呟く。大丈夫。

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