シャルトルへ行きました。④

四、 リプレイ終了。再びバスの中。

 バスは、トンネルを前に一段と進みが遅くなった。
「ーー許せない」
 何が「結婚はダメだ」だ。私ではだめだった、そういうことじゃないか。怒りの涙が目尻を湿らす。
 仲野に別れを切り出された、あのバレンタインデーが思い出された。あの日から何度泣いたことだろう。私だってずっと泣き暮らしていたわけではない。一時期は仲野の鼻を明かしてやろうと出会いサイトにも登録して婚活に励んだ。だがそこにコロナがあった。実際に会う機会も制限されてしまうとこういう縁は続かない。見合いと同じで勢いが必要なのだ。時だけが流れ、ついに先月三十九歳になった。来年は四十の大台に乗る。それなのに仲野は自分よりずっと若い、それも社内の人と結婚した。「結婚はダメだ」といっていたのは誰だ。下唇をぐっと噛みしめた。ガンバレ、自分。マジ、こんなところで涙を見せるわけにはいかない。寝不足で充血した丸い目を見開き、パタパタと手で扇いで涙を追い払う。
 バスがついに動かなくなった。フランス人の運転手が片言の英語で、前方の席にかけていたコーパイの鈴木に説明している。
「事故渋滞だそうです」
鈴木が後ろに身体をねじって伝えると、複数の「あぁ」という嘆息が聞こえる。もう寝るしかない、と思うのだが、閉じた瞼の裏に仲野の顔が映し出される。別れを告げたあと、「大丈夫だよな?」と覗き込んだ、あの心配げな表情だ。
 突然別れを切り出されても、「はい、そうですか」と受け容れるわけにはいかなかった。仲野とは三十四歳の時に出会った。仲野がサンフランシスコ支店での駐在を終えた帰任便に私はパーサーとして乗務していて、という良くあるパターンだ。グループ交際を含め二年も付き合った。三十半ばの、それも社内の女とそんなに付き合ったのなら結婚する覚悟があるべきだろう。それなのに。
 後ろからサイレン音がけたたましく迫ってきた。救急車とパトカーらしき車がバスの脇をすり抜けて行く。どんな事故が起きたのだろう。その耳障りな音のせいか、思い出したくないシーンが呼び起こされる。

 酒の勢いを借りて電話をかけるようになったのは、別れてからしばらく経った頃のことだった。仲野は、「酔ってんのか」と応えた。うんざりしている顔が目に浮かぶような声だった。そんな声を聴きたかったのはではない。一人で部屋にいるとたまらなくて、気づくと電話をかけていたのだ。二、三回、いやもしかしたら四、五回かけただろうか。私だってもう止めなくては、と分かっていた。それなのに、仲野は居留守を使うようになった。それで私もついつい感情的になり、
「そんなことするなら、私だって。ーー内部告発してやるんだから!」
と留守電に残してしまったのだ。そんなつもりはなかった。考えてもいなかった。それなのに口からぽろっと出てきた。自分でも驚いた。慌てて電話に応えた仲野の動揺した声。
「そんなことすると、サキ、客室部に居られなくなるぞ」
とまるで私のことを心配しているかのような口ぶりだった。
「いい人ぶるのは止めて」
「内部告発って、何を告発するというんだ」
「えーっ? ほら出張についてったこととかぁ」
 仲野と付き合っていた間、誰もがやっているような小さなズルを幾つかしてきた。小さな事とはいえ、告発という形できたら仲野も困るだろう。酔いに任せておどけてそういうと、仲野はため息をつき、
「勝手にしろ」
と電話を切った。
 その後、ふいに訪れた静寂。携帯が手を擦り抜けてソファーの上に落ちた。その音すらも吸い込まれた。あのあとも何回か電話をかけたが受信拒否をかけられ、留守電すら入れられなくなった。

「バカ、バカバカ」
 バスの中で一人、顔を左右に振る。告発だなんて何考えていたのだ。「バカ。私はバカ女だ」。涙がぽろっとこぼれてしまった。バッグの外ポケットに突き刺してあったクリアフォルダーでパタパタと顔を仰ぎ、頬を乾かす。 すると、後ろの席の隙間から、
「ーーあのぅ、お休みですか」
という遠慮がちな声がする。片山は、いつの間にか真後ろの席に移っていた。マズい、変なところを見られていなかったかしら。
「え、あ、ううん」
と慌てて答える。
「あの、もしよろしければーー」
片山は明日ユニットの皆で大聖堂が有名なシャルトルまで遠出しようと思っているのだが、
「ご一緒にいかかげですか?」
という。
 このユニットは、私がユニット長、その下に今回は有休を取って不在の田中、その下にこの片山がいて、以下十三名のメンバーがいる。片山とは余り言葉を交わしたことがなかった。というのも、いつもは田中が皆をまとめ、必要なことがあれば田中から伝え聞くという形式を取っていたのだ。これは私がそうしたのではない。
 実は、私、ユニット員達から村八分にされている。本来なら上に報告すべき状況なのだが、今、波風を立てると私の方が外に出され兼ねないのでじっと耐えている。不幸が多過ぎて数え忘れていたが、考えてみたら、これも不幸ドミノの一つと言えよう。

つづく

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