ウィーンへ行きました。⑥

名もなき詩

 最近、原田は、父の負債について口にするようになった。親からせっつかれているらしい。
「ユキちゃんだってボクと結婚したいよね? だったら、やっぱりこのことは整理しないとダメなんだよ」
と、わたしの顔を覗き込んだ。まるで小学校の先生が悪いことをした子どもを諭すかのようだった。だが整理せよといわれても、借金はわたしではなく父が背負っている。それにわたしも何度も「返せない額ならば自己破産するべきだ」と父に進言してきたではないか。その度に父から「ろくでなし!」と怒号を浴びせかけられた。それがトラウマになっていることも含めて、原田は知っているはずだ。大体、負債は父名義だから、父が存命な限りわたしが被ることはない。将来父が亡くなった時は相続放棄の手続きをすれば身を守れる。これももちろん原田に伝え済みだ。今更、何をしろというのだ。
「そうなんだよね。参ったな。お父さんと法的に縁切ることってできないのかな。例えば、ユキちゃんが誰かの養子になるとか……なんてね!」
本気半分、冗談半分という口調だった。
「誰の養子になれっていうの? あなたのご両親?」
 戸惑ってそう問うと、原田は慌てて、
「いや、うちは無理だよ。これ以上ユキちゃんのことで親を悩ませるのはかわいそうだよ」
 と言い、
「やっぱり、ユキちゃんがお父さんを説得するしかないよ」
 とわたしを見つめる。だが父を説得することなどできない。父の借金癖は中毒のようなものだ。そこから抜け出したい、と父が思わない限り終わりはない。最後に父と話した時、わたしもそれを悟った。
「これは父の問題だから」
絡みつくような原田の視線から目を反らす。
「そこがユキちゃんが分かっていないところなんだよね。結婚となると家族は一心同体なの。ユキちゃんとお父さんはセットなんだよ」
 これはわたしが一番聞きたくない言葉だった。父から離れたくて、大学時代に家を出た。バイトをかけ持ちし、小銭を数えて買い物するような生活を耐え忍んだ。実は結婚も、父の戸籍から外れ、別の人の戸籍に入ることで、より一層父との関係性が薄まるような気がして、それで早くしたいと焦っているところもある。それなのに「セット」だと? 何をしても親の呪縛から逃れられないというのか。その一方で、「誰かの養子になって親子の縁を切れば」と原田は軽口を叩く。この人は親子というものを何だと思っているのだろう。それも自分の親には「迷惑」をかけたくないから、私には「誰か」の養子になればよい、と笑う。
 気づくと、身体を震わせ泣いていた。それを見て、原田も言い過ぎたと思ったのだろう、慰めようとわたしの肩に手をかける。だが、考えるよりさきに、身体がその手を撥ね除けた。
「うわ、何するんだよ」
 原田は被害者のような声を出す。その恨みがましい顔を見ると、何ともいえない悲しさが込み上げてきた。原田にカバンを押しつけるようにして「帰って」と追い出した。玄関口で泣き崩れるわたしをみて、原田はため息をつくと、
「わかったよ。帰るよ。帰ればいいんだろ」
 と、出ていった。

翌日、今回のウィーン・フライトのため、スーツケースのパッキングをしながらSpotifyをつけると、プレイリストからミスチルの古い歌が流れた。「名もなき詩」というタイトルの歌だ。
 
 ちょっとぐらいの汚れ物ならば
 残さずに全部食べてやる
 Oh darlin 君は誰
 真実を握りしめる

 
 子供の頃、母親が台所でミスチルを聞いていた。わたしも一緒になって、「Oh darlin」とサビの部分を口ずさんだものだ。
 
 苛立つような街並みに立ったって
 感情さえもリアルに
 持てなくなりそうだけど
 こんな不調和な生活の中で
 たまに情緒不安定になるだろう?
 でも darlin 共に悩んだり
 生涯を君に捧ぐ

 
 途中から、手を止めて聴き入った。
「こういう愛をただ待つ私は幼稚なのだろうか」
 自分が何か欠損していることは知っている。いつも不安で、いつも寂しくて、いつも迷っている。そんな自分を丸ごと受け容れてくれる人を求めている。それは間違っているのだろうか。

 間違っているというのなら、愛って何なのだろう。

←前へ

つづきへ→

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?