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写真屋は技術屋だ

父親が良く言っていた言葉です。私の実家は祖父の代からの写真屋でした。早い時期からDPEの自家処理を初めて、カラー現像が出来ることが自慢でした。当時は作業工程の全てがアナログ、温度管理が腕の見せ所と言われた、昭和40年代の話です。

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自宅には暗室や作業場があり、忙しい時には家族総出で作業するような家族経営の店でした。思い出は色々ありますが、印画紙の切れ端をもらって日光写真で遊んだり、期限切れのフィルムで家族を撮影した記憶が鮮明に残っています。小学校の遠足の時などは、スナップ撮影のカメラマンとして父親が同行することもあり、高学年になるとちょっと恥ずかしくて嫌だったな。

中学に入ると修学旅行の時に自分が撮影担当になったりして、それも面倒で嫌だった記憶があります。当時のカメラはリコーオートハーフ、35mmフィルムのひとコマの半分の面積を使って撮影するため、倍の枚数が撮れるカメラでした。「このカメラは倍撮れるんだぜ!」と自慢していたら「ハーフでしょ」と一蹴されたことも。撮影した写真には全て番号をつけて、クラス内で注文を取り、焼き増しして販売する訳です。その作業がなかなか大変でした。当時はひとクラス40人以上ですから、中には金を払わないやつもいて、何気に苦心していたものです。高校に入るとより本格的になり、体育祭や修学旅行に一眼レフを持ち込むようになります。

当時の私は写真に興味を示すこともなく、写真部などに所属することは一切ありませんでした。旅行やイベントの時だけ家のカメラを持ち出して撮影するだけでしたが、そこは写真屋の息子です。カメラの扱いは手慣れたものでした。転機が訪れたのは20代半ば、家業を継ぐことになり、出張撮影にも同行するようになりました。当時はフィルムの時代ですから、一発勝負です。現場でプレビューを見ることなんて出来ませんので、単体露出計片手にカメラをセッティングして、中判カメラで撮影する父親の横から、35mmカメラで予備的に撮影することから始めました。

撮影技術は手取り足取り教えてもらったわけでもなく、目で見て覚える職人的なものでした。その頃に良く言われたのが、タイトルにもある「写真屋は技術屋だ」ということです。理髪店や自動車整備と同じように、技術料をもらう仕事であると。その頃の私は、本気で写真に取り組んでいたわけでもなく、配達に出れば寄り道ばかりでなかなか帰ってこない、自ら技術を学ぼうとしない、そんな感じでのらりくらりと過ごしていたものです。

家業を継いで数年が経った頃、露骨に賞金狙いで写真誌の月例フォトコンに応募したことがありました。こともあろうに、そこで優秀賞をいただき、賞金8,000円を手にします。審査員は写真家の広田尚敬さんでした。その後も何度か入選して、気が付けばズブズブと写真の沼にはまっていきました。当時撮影していたのは地元のローカル線を走るSLです。実際、被写体は何でも良かったのです。花でも風景でもスナップでも。まだ撮りたいものが明確になっていなかった時期ですので、色々なものを撮影しながら、その被写体に合う技術を吸収していったのです。賞金目的の不順な応募から写真の面白さに気付くという、何ともおかしなスタートラインを切ったのでした。

その先は暇さえあれば写真を撮って、フォトコンに応募したり、プリントして店に飾ったりしていました。その頃はインターネットもテレホーダイの時代、時間を気にしながら作成したホームページに、自ら撮影した写真を掲載すると、掲示板にコメントが付いたり、写真趣味の仲間が出来たり、新聞の取材を受けたり、自分の世界がどんどん広がっていくのが楽しくて仕方ありませんでした。その後、何年か経つとデジタルカメラが主流になり、フィルムカメラの居場所が少なくなってきます。急速なデジタル化の波に飲まれ、店を閉めることになるのですが、その当時に繋がった写真仲間との交流は今もありますし、フリーランスとして、苦労しながらも食べていけるのは、身に付けた技術があったからだと思います。記録写真でも芸術的表現でも、技術がなければそれを形にすることが出来ないのです。

フリーランスの写真家になった今、写真屋は技術屋だという言葉の意味が本当に良くわかります。あの時、フォトコンに入選していなかったら、写真の面白さに気付いていなかったら、今の私はありません。異業種で写真とは無縁の生活をしていたと思います。父親は平成20年2月23日に亡くなりましたが、命日の数日後に、ふとその言葉を思い出しました。

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