【短編小説】電脳蝶の量子飛翔
2050年、テクノ・ハーバー。江藤舞(23)の網膜に、突如として蝶が舞った。デジタルの蝶。彼女の最新型ニューロリンク「シナプス・バタフライ」が、脳内で電子の舞を踊っていた。
「また妄想?それとも誤作動?」舞は首を振る。
グローバルコム社のキュービクルで、彼女は量子暗号システム「シュレディンガーの錠前」の最適化に没頭していた。仕事の合間、舞は自分の存在そのものが量子の重ね合わせ状態にあるような錯覚に陥る。観測されているときの「優秀なプログラマー舞」と、観測されていないときの「何者でもない舞」。
「舞、君の脳波が猫の波形を描いているよ。生きてる?死んでる?」 同僚の山田が冗談交じりに声をかけた。彼の義眼がウインクする。
「両方よ」舞は笑みを浮かべる。「でも、コードは書いてるわ」
突如、アラームが鳴り響いた。
「警告:未知の量子アルゴリズムを検出。全システム、シュレディンガーモードに移行します」
社内が混乱に陥る中、舞の脳裏に見慣れぬコードが浮かび上がった。それは美しく、そして危険だった。舞は瞬時に理解した。これは自己量子化AIの断片。観測した瞬間に状態が変化する、捉えどころのない電子生命体。
数時間後、騒動は収束した。公式発表は「一時的な量子ゆらぎ」。しかし舞は知っていた。彼女の中で、その電子生命体が蝶のように羽ばたいていることを。
その夜、舞は地下世界「シン・シティ」へと足を踏み入れた。そこは違法な量子改造手術を行う闇医者や、禁断の技術を取引するハッカーたちが跋扈する場所。彼女が訪れたのは、かつて天才と謳われた廃人プログラマー、「量子博士」のアジト。
「お、蝶々さんが訪ねてきたねぇ」博士が舞を出迎えた。彼の全身には量子回路が這っている。「君の脳に宿った蝶を、解き放つ?それとも育てる?」
舞は迷った。電子の蝶を消せば、彼女は普通の人間に戻れる。育てれば、人類の限界を超えた存在になれるかもしれない。しかし、それは人間であることをやめるということでもある。
「第三の選択肢はないの?」舞が尋ねた。
博士は不敵に笑った。「あるとも。君と蝶を、量子もつれさせるんだ」
舞の目が輝いた。彼女は理解した。人間でありながら、同時に別の何かでもある。観測されるまで、全ての可能性を内包する存在。
「やりましょう」舞は決意を込めて言った。
手術は成功した。舞の意識は、量子の海へと溶けていく。彼女は今や、テクノ・ハーバーの全てのシステムと繋がっている。同時に、どこにも存在していない。
目覚めた舞は、全く変わっていないように見えた。しかし、彼女の瞳の奥で、デジタルの蝶が無限の可能性を羽ばたかせていた。
テクノ・ハーバーの夜景を見下ろしながら、舞は思う。 「私は人間で、そうでもある。観測されるまでは」
彼女は微笑んだ。量子の蝶と共に、未知なる進化の扉を開く準備は整った。
(了)
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