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【夢日記】空蝉

外国に旅行に来てゐる。

穏やかな波の音。
燦々と降り注ぐ陽の光。
空気は暖かく、まとわりつくやうな湿気を感ずる。

たぶん、東南亜細亜あたりだらう。
むかし、一度旅行で行つたことがある。

何処かからラヂオ語学講座の音声が聞こえてくる。

「それではみなさんも発音してみませう。 ‘mazerunda’ ー ハイ、もう一度。 ‘mazerunda’ ー この動詞は日本人の私たちには覚え易いですね。偶然にも『混ぜる』と云ふ意味の動詞なのですから。次はこの動詞の活用形を見ていくことにしませう」

ぐるりの観光客はみんな日本人で、そのうちの一人が現地に着いてからヤツト現地語を勉強してゐるものであるらしい。さう云へば、ぼくの方では現地語の準備なぞてんでしてゐないことに気がついたのだが、モウ間に合ふまい。マア、英吉利語さへ分かれば最低限の用事は足せるだらう。

さうかうしてゐるうちに、宿に到着する。

少し大きめの民家と見間違ひさうな、二階建ての古い建物。玄関から這入ると、ツンと亜細亜らしい香辛料の匂ひが鼻につく。天井では古めかしいシイリングフアンがうんうんと唸り声をあげ乍ら、面倒くささうに回転してゐる。

西洋式のホテルと云ふよりも、寧ろ現地人の営む民宿といつた風情である。

税関に勤務してゐた頃に上司だつた上席監視官殿が先にロビイに陣取つてゐて、日本から持ち込んだらしいカツプ麺を大きな音をたてて啜つてゐる。果たして、彼の目の前には大きなカップ麺が三ツも置かれてある。

「上席官殿、お久しぶりです」
「おお、お前か。何だ、旅行か」
「ええ。上席官殿、随分とカツプ麺が沢山あるやうですが。どなたかご一緒でありますか」
「いや、全部俺のだ。一人で出張でな。しかし、ここいらの飯や水はドウも体に合わないから困る。お前も食ふか」
「いえ、折角ですが。自分は知り人と飯を食ひに出ます」
「さうか。またな」
「ハイ。それでは」

夕刻。風呂上がりに、持ち込んだ電動剃刀を使ふ段になつて、妙な事になる。如何云う訳か、ちやんと動かない。スイツチを入れたり切つたりするうちに、電動剃刀の奴がパカツと音をたてて開いたかと思うと、丁度風車のやうな塩梅で、何枚もの刃をトンデモナイ勢いで回転させながら顔の方に近寄つてくるではないか。

ぼくは思はず「うわあ」と云つて、手を離してしまう。

いつの間にかトンボみたやうな形状に変じた電動剃刀はブブブと耳障りな羽音を立てて飛び去つていった。マア、仕事で来たわけでもなし、数日滞在する間に髭を剃れずとも、とりたてて不自由はあるまいて。

ぼくは気を取り直して、この国に出かけて来てゐる知り人に連絡しようと、行李から携帯電話を取り出す。

けれども、この携帯電話も様子がおかしい。

触つてゐるうちに、携帯電話はずんずん熱くなつていき、遂にはとても持つてゐられないくらゐになる。仕舞には熱くなつた携帯電話の背がこれまたパカリと割れて、そこからセミみたやうな翅が覗く。セミになつた携帯電話もブブブと音をたてて飛んで行つてしまつた。

嗚呼、弱つたな。
これでは知り人に連絡を取るわけにもいかない。

着替を済ませて、脱衣所を出る。

居室に戻る途中、厨房、と云ふよりも炊事場(或は台所)を通る。それは野菜屑だの肉の切れ端だのが散乱した汚らしいところである。そのまた隅の方にウゾウゾと蠢いてゐるものがあるのが目に付く。

それは、昆虫の交尾である。

携帯電話のセミと電動剃刀のトンボが其処で交つてゐる。ぼくの足音に気がついたのか、二匹の蟲はパツと離れる。トンボはそのまま飛び去るが、セミの方ではぼくを恨んでゐるのか、急にブブブと云つてぼくに向かつて飛んで来る。

腰に止まったセミを咄嗟に払ひ除けると、ゴンと音をたてて携帯電話が床に直撃する。

液晶には無数に亀裂が入つてゐて、とてもそのままでは使い続ける事はできまい。修理屋に出せば、セミの翅を取り去つて、画面も元通りになるのかしらん、と思ひ思ひしたが、それも日本に帰国してからのことになるだらう。

そのときにピンポンと聞こえて来る。

「十二番の方、一番診察室にどうぞ」

ぼくの手にはしつかりと十二番の札が握られてある。「嗚呼、さうだつた。モウ直ぐ薬が切れるんだつたな」と思ひ出して、いつのまにか座つてゐた、古くて大きな振子時計のある消毒液臭い診療所の長椅子からぼくはツト立ち上がる。



…というところで目が醒めた。

いつのことだったか、なぜか車のダッシュボードとフロントガラスの隙間に挟まっていた、小さなセミの抜け殻をふと思い出した。硝子細工のように透明できれいな抜け殻を。


夜な夜な文字の海に漕ぎ出すための船賃に活用させていただきます。そしてきっと船旅で得たものを、またここにご披露いたしましょう。