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20201121_なんとなく疲れた日に書く日記。

先週末から今週末にかけては、なんだか、ひどく疲れた。
それは、単に日曜日に遠出して遊んで帰ってきたというのが原因でもあるし、その前日に、こちらとしてはなんの気無しに、そして一応丁寧に綴ったつもりのメールに対し、なんだか、あまりにもそっけなく、冷淡な返信が届いてしまったことも原因になっている。

遠出したことで感じた肉体の疲れと、あまりにそっけない返信に対して感じた精神的にどっと来る疲れと、二重で疲れたので、なんだか今週は、特に週の前半、全然元気がなかった。

まあでも、正直なところ、肉体的な疲れは、毎日早く寝ていればそれなりに回復してくるし、精神的な疲れも、一週間ほど置くことで、だいぶ冷静になってきた。
正直、この人にお願いしている他の件も、今回のことを機にうまくいかなくなるなら、もうそれはそういうものなんだろうな、と思うことにした。

なんというか、私は、ずっとこれまで自分自身に対して、やたらと社会的な意味を持つように強制してきたところがあって、それは、今の自分にとっては、めちゃくちゃしんどい。
しんどいことなんだなあ、と、ようやくわかってきた。

確かに、社会に対してもっとインパクトを持てたり、物が言えるほど強くなれたり、何かを成し遂げることができたら、ものすごくいいだろうなあ、と思う。
それはなぜかというと、そのことで、社会がいい方に変わっていってくれるんじゃないかと思うから。
私はずっと、自分が生きづらさを感じてきて、だから、社会にある生きづらさをなんとか取り除きたいなあと思ってやってきた。
けど、体も壊して、精神的にも障害が出て、なおかつ、社会的な立場が殆どないような仕事をするようになって、なんというか、自分はこんなもんだったんだなあ、と思うようになった。

でも、この「こんなもんだったんだなあ」というのは、別に悲観しているわけではなくて、やっと、自分の本来の輪郭が自覚できるようになった、という意味で、どちらかというと、私はいいことだなあと捉えている。
これまでは、「私はもっとできるはず」と、やたらと自分を過大評価していて、つらかった。
これも、結局は幼少期の環境やうつの後遺症だと思うけど、私は、中高とまともな環境で対人関係を築くことができなかったので、自分の輪郭がずっとぼんやりしたままだったのだ。

ぼんやりしたままだとどうなるかというと、自分と他人の境界線がはっきりしなくなって、人から言われた些細なことでも、それが否定だったりするといつまでも気にしてしまったり、他人の領域の話なのに、何か相手が不満を持っていたりすると、その不満を取り除けないのかとか、自分が原因なのではないかとかって、やたらと気にしてしまい、「自分自身を冷静に見られなくなって」しまう。
これが、成長期の自我の意識形成をすごく阻害して、他人とうまく距離を取れない人間になってしまったと思っている。

なんだろうな、家庭か学校かの、どちらか、もしくはその他の場所で、もっとうまく関係を結べる練習ができるところがあったら良かったのかもしれないけど、私には、残念ながら成人するまではそういう場所はなかったんだろうね。

そういう自分の生い立ちを振り返るにつけ、私は、「本来なら10代のうちに身に着けておく”自分の実力なんてこんなもん”」という意識が、全然形成できなかったんだなあ、と感じる。
この意識は、すごく大事だと思っていて、それがないと、こんな歳になるまで、「自分はなにかできる」と思いこんで、それに実力が見合ってない結果、何にもなれずに今更「こんなもん」と気づく羽目になる。

まあ、自分の場合は、そういう形でしかその意識を持つことができなかったから、これでいいんだと思うけど。

で、「自分はこんなもん」と思えるようになったと言いつつも、やっぱりまだ欲張ってしまう部分、頑張ってしまう部分があったんだと思うけど、冒頭の「そっけない返信」で、そんな部分はあっけなく無くなった。
あ、この程度の返信で、私の「やろうと思っている気持ち」ってなくなるんだ、と思ったら、なんというか、今後の人生で、不要な頑張りってほんとにいらないじゃん、って気づいた。

もう、無闇に頑張りたくないし、対人関係も、広げたくない。
私は気に入った人たち数人と、たまにおしゃべりできればいいし、それなりに遊んで、それなりに交流ができていればいいし、何か難しいことを成し遂げないわけでもない。

あと、これが大事だな、と思ったのは、これからの人生を、「目標から逆算しない」ということだ

このことはすごく大事で、これまで、「目標から逆算」しすぎていた。
こんなのは無理だ。
人生は決まったとおりに進むものではないし、自分がやりたいことがいつでもできるとは限らない。
これまでの積み重ねもあるし、自分の金銭的な限界もある。
そういうことは、若いうちは気づけなかった。
自分がビジョンを描けば、きっと将来はそうなるのだと思っていた。
だが、実際は違う。

ビジョンを描いたところで、そのビジョン自体が自分に合わなくなってくることもあるし、他に手を出したくなることもあるし、目標が高すぎたら自分も疲弊してくるし。
ビジョンを描いて、それに邁進することだけが、手放しで称賛されるべきものでもない。

普通の人間だから、それなりに働いて、たまに遊んで、ビール飲んだりカフェ行ったりして息抜きして、またそれなりに働くほうがいい。
仕事に意味を求めすぎないようにしたい。
なんというか、自分のやることに、いちいち「社会」を紐付ける思考のクセを治したい。
これは本当に時間がかかることなのかもしれないけど、いちいち自分のやることに対して、過剰な意味付けをしたりして、重たくならないようにしたい。

自分のやりたいことなんて、大きいものはもう殆どないけど、とりあえず、今の仕事をしていて興味が出てきたものからまた何かしら枝葉を伸ばしていけたらいい

それ以外のことについては、もう、「社会」というものとの紐付けを一旦捨てて、もう少し休養してから考えたい。
これから2年近くは、正直、なんらかのイベントや交流会といったものには、一切出ないことにしたい

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