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陽だまりとデルピエロと

ちょっとした余暇に散歩をしてみる。
どこかへ向かっていく。

そこでは、
誰も知らない何かが起きるんじゃないかって、
なにもせずに寝ていてばかりだった僕は、
ささやかな願いをこめながら歩を進めていく。

子供の頃なんか特にそうだったけど、
この歩みの中で出会う未知のことや、
思いもよらぬ発見がとても楽しくて、
いつもどこかを目指し歩いていた。

木漏れ日の隙間を縫うように走る夏。
鮮やかな期待、罪深き美しさ。
木々を揺らす風向きはいつも気まぐれで、
そのタクトは閃きに満ちている。

そうやって、ふとした瞬間に僕は、
デルピエロのことを考えることがある。

僕はデルピエロが大好きだ。

デルピエロのことになると、
普段よりもだいぶ饒舌になってしまう。

自分はすごくユヴェントスが好きというわけでも、イタリア代表やセリエAにこだわりがあったというわけでもない。

ただ、デルピエロが僕にとって大好きな選手なだけであって、それ以上も以下もないような、それこそ行き場のない愛みたいなものなのかもしれない、そんな感情を長年にわたって、抱き続けてきた。

あの頃のデルピエロ、
秋めいた芝生のピッチさえも飛び跳ねるかのように、少し丈が長くみえるユニフォームを揺らしドリブルする彼の髪は長い。

あの頃のデルピエロ、
その端正な顔立ちと柔和な笑顔は、あふれんばかりの才能をふわりと包み、どんよりとした冬の空をも彩っては煌めかせる。

あの頃のデルピエロ、
柔らかく繊細なボールタッチは純粋かつ美麗で、身体の重心から少し右へ、優しく転がされるボール、ペナルティエリア左45度から、いつもきまって彼の右足はそのボールを素早く捉える。

蹴り上げられたボールは美しく弧を描き、春の陽だまりのようにゴールマウスに吸い込まれていく。

幾度となく繰り返されてきたこの映像は、
僕の瞳や心から丁寧に焼き増しされて、
真っ白な記憶の額を飾り続けている。

彼が語られる際には、毎度決まった紹介文句がある。

「その芸術的な美しいプレーが、画家のピントゥリッキオに例えられる」

こんな例えを最初にした人は一体誰だったのか?そんなことは気にもとめずに、少年時代の僕はピントゥリッキオって誰だろう?と、不思議に思っていた。

色々と調べても、自分の調べられる手段や範囲の中では全然情報が出てこなかったことを思い出す。

なんとも教養深そうな、洒落た例え・言いようであるけれど、こんな風に芸術家に例えられるような選手、プレースタイル、その語り手って、現代のサッカーでもいたりあったりするのだろうか?と今になって思うようになった。

こういった例えというのは、
誰かが誰かに、デルピエロのプレーの素晴らしさを伝えようと、その一心から適切に表現することに努め、練りに練って考えられたものなのだろうか?

それともちょっとカッコつけてしまって、語り手がそれっぽく言おうとしたのかもしれないし、感化された瞬間に直感がそうさせたのかもしれないけど、どんな理由だったとしてもこの表現は洒落ていると思う。

実際に、自分は映像で観るよりも先に、
文字としてデルピエロのプレーを感じ、捉え、
想像した。

今と違って、セリエAの映像を観ることが25年くらい前は難しかったし、サッカーにハマり始めた小学生の自分が頼りにできるのは、ワールドサッカーダイジェストとワールドサッカーグラフィックくらいだった。

当時は雑誌に書かれた選手の話や、試合結果やゴールまでの道筋の解説を読んでは、選手のプレーを写真とあわせて想像していくことが大きな楽しみでもあった。

その助けとなったのが、絵を見たこともない画家の名前と、その比喩表現であったのだから、遠くイタリアで囁かれたこの例えが、極東の端っこにも届いていたというのはなんとも素敵なことじゃないかと思う。

それがデルピエロとの希薄なようで、
今に至る思いの根底にあるような接点であった。

まだテレビが広く家庭に普及していなかった時代に、ラジオでスポーツを観戦していた人たちも、もしかしたら同じように憧れやイメージを膨らませていたのだろうか。

ペレの時代とかも、サッカーが大好きな人たちはみんなこんな風に考えを巡らせていたのかな?と、過去にも思いを馳せたくなる。

そして、デルピエロは実際のプレーをもってしても、僕のことを魅了した。映像で観た彼のプレーは想像の何倍も美しかったし、思ったよりもずっと儚さに満ちた閃きを眩いばかりに放っていた。

あの衝撃的なフィオレンティーナ戦のボレー、トリノ戦の驚くべきヒール。ドイツの息の根を止めた延長戦のゴールや、宝石のようなベルナベウの夜。

デルピエロの思い出は、本当に多くの人の心に刻まれているだろうし、その美麗さが観る者のサッカーに対する姿勢や感覚までも研ぎ澄ましていたのかもしれない。

こう振り返ってみると美しさばかりがフューチャーされてしまうが、とても夢幻的にも見える彼のキャリアも、決して順風満帆ではなかったことはよく知られている通りで、美麗な老貴婦人には常に注目が集まるものだし、当然のごとくいつもプレッシャーに苛まれたキャリアだったと思う。

膝の怪我での長期離脱や、カルチョスキャンダルの余波など、彼をとり巻く環境は変化し続けていき、少し判断を誤ったら転げ落ちてしまいそうなシーンもあった。

それでもデルピエロはキャリアの後半にかけて、卓越したテクニックに加え、更なる力強さまでも身につけていった。   

勝利やゴールへの思いを強く持ち、新たな挑戦に臨み続け、セリエB・セリエAで連続して得点王にも輝いた。

カンピオナートやワールドカップ、チャンピオンズリーグなど、ほとんどの主要タイトルを獲得してきた彼が、個人でも得点王というタイトルを受賞することになり、再度の完全復活を印象付けたことはファンとしてとても嬉しかった。

デルピエロのことを考える時、色々な記憶の断片や映像を手繰り寄せるのだけど、いつもその思考はなめらかで淀みがない。

その当時のことを振り返りつつ、色々な感情が色彩を帯びて蘇ってくる。

思い出にひたるだけではない、片時の青春を過去の自分と綺麗に分かち合うような気持ちで、前を向くことができる。

ちょっとした余暇の散歩はこのようにして、これからを切り拓く轍を残し、その時間は明日へと昇華していく。

未だ見ぬ待ち遠しい日々へと吸い込まれていく放物線が、左45度から放たれるあの美しいボールの軌道のように、陽だまりに収束することを願って、僕はまたどこかへ行ける気がする。

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