詩【遣い】
古いけどまだ使えるモップみたいな髪の若造が、駅のホーム、目の前を横切った。
黒色のセットアップという装いは今時で、それはそれで今時らしくダサかったが、まあ許せなくはない。
通り過ぎる彼の両手には、その風体には不釣り合いな、美しい紫陽花が携えられていた。
新聞紙に包まれた青と紫の紫陽花は、丁寧にブーケのようにあしらわれていて、両手で支えられる様子は瀟洒な花瓶をも想起させる。
彼が視線の先からさらに遠ざかるにつれて、紫陽花の色合いと携えた両手の白さが、影送りのごとく目に張り付いては離れない。
残像に抱く感情はまったくの無で、ただあの紫陽花と携えた両手の白さが、感情を追い越していく。
追い越した先に誰かに受け取られるものなのか、そういったものではないのかが分からなくて、残像にさえも執着をしてしまう。
この執着は平生からの怒りや焦燥の産物で、きっと彼は少しでも楽にさせてくれようかと遣わせられた使者なのかもしれない。
もとはといえば誰も何でもなく、天使も悪魔もないようなことなのかもしれないが、自らの執着というものは卑しく、かわいがってしまうもので、自分勝手が拵えた針の筵でさえもかわいいものだ。
それほどまでに自分というものは自分で、見出してしまった遣いをも、遣いだろうとして捉える。
終わりのない事柄ほど終わりは明白なのに。
才の限り以前にそもそもの才の無常さが、包まれた紫陽花と白黒のコントラストに促される。
終わりに向けて誘いだされた才はまた、叫んでは搾り出され、暮らしの中に言葉を消していく。
またさようならじゃなくて、またねとなる。
これじゃあまた、遣いが来る。
消し去られはしないほどに、ちょうどよい痛みが残るように、遣いというのはいつもそうする。
だから油断してしまう。
ちょうどよい痛みを抱き続けるのが才なのかと、ものは言いようでいたらまた遣いが来る。
だから油断してしまう。
ちょうどよい痛みだけが残り、また遣いが来ることをも待ち望んでいるような、それが才であるかのような捉え方にさようならを。
いや、またまたねと言う。
ほら遣いが来た。
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