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高松〜丸亀旅日記・その1~純喫茶と誇張

一本の映画を観るためだけに旅に出る。
と云うのは随分と酔狂なお話しで、なかなかに自らの行動力を愛でてあげたくなる行為だ。
サラッと目的だけ果たして、キッパリ当地より踵を返して立ち去る。と云う位に割り切った生き方をしてきていたら、私の来し方も実りあるものだっただろうと振り返る。

しかしながら、そんなにストイックでもプリミティブでもない私はひたすら歩いて、香川県高松市から丸亀市を彷徨し尽くし、買ったばかりで履きこなせていないDr. Martinでジュクジュクに靴擦れをつくる有り様だった。旅の出立におろし立ての靴を履いてくるくらい愚かなことはない。ただ、愚かだから仕方がない。

大阪の梅田桜橋から「フットバス」と云う名称の高速バスに乗り、高松市へ向かう。高速バスの乗車口は桜橋という場所にあり、初めて訪れるかに思える、初めて耳にする地名であった。JR大阪駅で軽く迷った私は、近くにいた妙齢のご婦人に
「桜橋口ってどっちですか?」と尋ねることにした。
そう尋ねることにしたのだが、実際には
「桜橋口ってどちらかご存知ですか?」と上方修正して口にした。
紫色のスカーフをまとったご婦人は、
「そんなことより、アンタたばこ持ってる?」と口にした。
申し訳ないけれど、自力で探すことにした。たばこは持っていたが。

結果的には桜橋は、初めての土地ではなかった。確か、関西将棋会館に行った時に通りがかったことのある場所だった。近くのALBIという商業ビルにはアウトドア関連の店舗が豊富に入っているようだ。また、改めて訪れたいと思った。

高松までは4時間近くかかる。「フットバス」は三列シートの車内。やはり、2時間を超えるような行程では四列シートは少々窮屈である。しかし、数日前に思い立って高松行きを決めた関係か、三列の真ん中のB列一番前しか空席がなく、サービスエリアなど乗客の乗降時に、乗降客が、私の座るBの1の脇をすれ違うたびに、手持ちの荷物の角を私の側頭部を軽くではあっても擦り付けていくので、軽くではあっても軽い憤りを覚えたことを軽くではあっても根に持ってしまったことを記録せずにはいられない。

当初、終点である高松駅まで乗っているつもりであったのだが、旅程に組み込んでいた「栗林公園」という停留所を見かけたので、慌てて降りることにした。
というのは実はいささか誇張であって、少し前から当該停留所に停まることに気づいたので、降りることに決めていた。なぜ、いささかの誇張に走ったのか、そのことは一旦置いておきたい。

一瞬「クリリン公園」かな、かわいいな。と思った。「リツリン公園」だそうだ。「クリリン」と呼んでいる地元民もきっといると思う。
「讃岐民芸館」とお土産店に足を運び、鬼瓦のバリエーションと徳利のバリエーションを堪能した。ついでに少し公園も散策するというバリエーションもこなす。

高松市街地までは、さほど距離があるわけでもないようなので、歩くことにする。途中、神社を見かけたので立ち寄る。

熱心に手を合わせている女性がおられたので、その後ろ姿をしばし眺める。よく、通りがかる度に社に一礼などしている人を目にするが、私には全く信心というものがないので、感心することがある。
何かを信ずる心というのを持ち合わせて生きる方が、人生はより豊かなのかも知れない。そうなのかも知れない。

朝から何も食べていない。
というのは少しばかり誇張したのであって、実は高速バスの待ち時間に至近のコンビニで鶏肉を揚げたものを食べたのだ、誇張していくきらいがあるなぁ。そしてその誇張をすぐに打ち消すきらいもあるなぁ。

セルフうどん店を見かけたので、入ろうか迷う。行列はできているが回転は早そうである。チャチャッと食べれるかもしれない。

結果、並んですぐに食べられた。セルフのシステムには、いつも少しテンパってしまうので、行列の間に手前の人の様子を眺めながら、注文システムを確認できることもあり、むしろ行列はありがたいと思う。
並ぶことをありがたく思うのは、小学校のフォークダンスで心ならずなフリをして、女の子と手を繋ぐことを期待しながら列に並んでいた自分を思い出すようで、甘酸っぱい。うどんはむしろ塩辛かった。テンパって、うどんの写真を撮り忘れた。

途中、立ち寄った公園で、すれ違う人たちがおしなべて携帯電話を見ているので、もしかしたら戦争でも始まったのではないか?と錯覚したが、違った。むしろ公園ですることなんてスマホ見ることぐらいしか無いのかもしれない。

高松は菊池寛ゆかりの街だそうである。
なんとなく、作家というよりプロデューサーという印象が強い菊池寛であるが、『父帰る』は知っている。父が帰ってくる話だと思う。

私も帰る場所がまがりなりにもあるからこそ、旅をしている訳であり、つかの間の非日常を楽しめるのも、帰るべき日常があるからこそである。「ずっと旅してたい!」とか言えるのは、日常とのギャップに酔っているだけなのであり、帰る場所が無い、という状態になってみたら決してホザけない台詞であるのかも知れない。

高松の市街地に入った。
アーケードの脇には細い路地も多く散策しがいのある街並みである。路地は、整備された街並みのほころびのようで大変好ましく思える。かつて、Googleマップなどが普及する前に、自分の歩いた道を刺繍で縫い付けていくという芸術作品を見たことがあるが、そうやって全ての路地を踏みつけて歩きたいと思った。
というのは少し誇張した。

高松市美術館に入る。
といっても、一目散にミュージアムショップに行く。オリジナル商品が少ない。ムンクだゴッホだの、そこらじゅうで目にする品揃えである。残念。
よくガチャポンの商品の企画開発が出来たら!という夢想をすることがあるのだが、私の18番目くらいの夢想テーマは、ミュージアムショップの商品開発である。
絶対、付箋とかクリアファイルとかマスキングテープとかはやらないんだから!絵ハガキはセーフ。あれは収蔵作品のアピールでもあるし。

とはいえ、果たしてそんなプランナーを任されたところで、どれだけの斬新なアイデアが出せるのだろうか?と思うと心許ないのは事実であって、そんな私がこのミュージアムショップを嗤う資格なぞ無いのであった。出来もしないのに、人を嘲るのは最低の所業であって、そんな自分が嫌いだ。

罪滅ぼしに何か欲しくも無い商品を買って贖罪とすべきかも、と刹那考えたが、私がこのミュージアムショップの一隅に立って、そんな気持ちの逡巡をしていることなど、傍目からは一顧もされないのであって、はたから見れば単なるデブが冷房に当たらんがために、不似合いな美術館に足を踏み入れたというシュチュエーションでしかないのであった。

美術館の前には、意匠を凝らした外観の喫茶店があった。
店の中には給仕をする老婦人の姿が認められる。一服することとする。

調理場には一人の老婦人。
フロアにも一人の老婦人。
全席に灰皿があって、奥の席では
「あのイーゼルでは、少し配置が難しいでしょ?」
「そうなの油ばかりだからアタシは」
と何やら美術談義に花を咲かせるグループがいる。美術館の前に鎮座するこの喫茶店の立地を考えると、かなり昔から高松の文化的拠点をになってきた場所なのかも知れない。

ミックスジュース。
りんごベースでねっとりとした口触りの甘さ。

伝票を運んできた老婦人が、半袖から伸びた私の腕に自分の腕を重ねて
「わー、白いねー。あなた色白だわねぇ」と話しかけてくれる。
白髪の割合が大きい御髪をひっつめ、年季の入った前掛けがよく似合うご婦人の声は「ねぇ」の声音を少し転調させて私に笑いかける。

私は突然話しかけられたことに少し驚きながら、何十年もこの店に立ち続け、何千回とテーブルと調理場を往復し、客の元へグラスやコーヒーカップを運んだであろうご婦人の笑顔に、
「お母さんと違って、働いていないからですよ」と返した。

30分ばかり腰を落ち着け、タバコを三本吸って、
「ごちそうさまでした。また来ます」と会計を済ませる。
「ありがとう。また、どうぞ」とお釣りを渡してくれる。
それまで、調理場の奥にいたもう一人の老婦人も、こちらに顔を向け、
「ありがとうございました」と送り出してくれる。

きっとまた来よう。と思うけれど、もう二度と来れないかもしれない。「また来ます」とかいうのは、それこそ誇張で、もう来られないことがわかっているから、口に出してそれを確かめているのかも知れない。

というのが、高松の初日、昼過ぎまでの出来事だ。

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