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今の自分にできることだけに集中しよう

人事を尽くして天命を待つ


そんじゃストア哲学の代表作、エピクテトスの「語録」について現実に応用できそうなところからまとめますか。

語録は素晴らしい日本語訳をされてても、まあ読みづらくて、何回も同じ行を行ったり来たりしてるといつの間にか寝落ちできる睡眠導入剤です。

この「語録」、実はエピクテトスの書いた著作じゃなくて、弟子のアリアノスがエピクテトスの言ってたことをまとめた本なんですよ。
孔子様語録である論語みたいですね。

アリアノス曰く、

👨<この本は師匠の言ってたことを思い出に話し言葉でまとめて保存しといただけで、世に出すつもりなかったんやけど気づいたら世に出とったんよ。不思議!(※表現にかなりの誇張があります)

とのことです。そんなことある?

まぁ、良いものは勝手に広まるということで、現代に生きる我々もエピクテトスの思想を学べるのでアリアノスに感謝しつつ、なるべく簡単にまとめます。

自分次第のもの、自分次第でないもの


エピクテトスといえば、まずは自分次第でどうかなるもの、どうもならんものを分けて考えろという二分法が代表的な思想ですが、これはストア哲学の中核をなす考え方でもあります。

以前別の記事で哲学色をほぼ抜いて軽く紹介しましたが、今回はエピクテトス分多めでお届けします。

二分法についてエピクテトスはこう言っている

👴<お前たちが音楽を演奏できるのは能力のおかげだが、音楽を演奏していい時と場合を判断するのは自分自身について考えることができる理性的能力であって演奏能力の方じゃない。黄金を美しいと思わせるのは黄金そのものじゃない。神様はこの一番大切な力だけを自分次第でコントロールできるものにした。本当はそれ以外の富、名声、権力、他人なんかもコントロールできるにしといてくれたら良かったのに、神様にはそれが出来なかったらしい。でも一番大切な能力だけは与えてくれた。

エピクテトスのいう理性的能力には「意欲、拒否の能力、欲求、忌避の能力」があります。(これらをまとめて心像を正しく使用する能力という)

簡単にいえば、
①そうしようとすること
②そうしないこと
③そうしたいと思うこと
④そうしたくないと思うこと

と言えるでしょうか。

これらは全部自分の内面のことなので、自分次第でどうにかなることです。
これさえきちんと使えれば、外部の自分次第でないことに振り回されずに済むとエピクテトスは説きます。

👴<わしらは自分次第でないこと、例えば肉体や財産や自分以外の人に振り回されすぎとる。船旅に出て、どんな風が吹こうがわしらにそれをどうかすることができるだろうか?わしらのコントロールできる内面には最善の手配をしなければならんが、それ以外のどうにもならないことはそのままにしておきたまえ。

これがエピクテトスの言いたい核心です。
自分次第でどうにかできるのは今の自分の内面のこと、自分の反応、行動、態度などだけです。
それ以外の外部要因にどれだけイラついても焦っても、何の意味もないどころか害悪でしかありません。とにかく、自分次第以外のことについては軽く考えるのがいい。

富も名声も権力も他人の心も、自分次第のものではありません。
それを求めても手に入る確証はありません。
それを求めるなら、手にいれるための努力そのものは選択されるべきですが、結果については追求してはならないのです。

結果にフォーカスしすぎると、我々は不幸になってしまいます。

ストア哲学的な備え


👨<じゃあ先生、私が無実の罪で死刑になったとき、そんなときどんな準備ができるっていうんですか

と生徒の一人が言った。

👴<自分次第のこととそうでないことを見極め、結果死ななければならないとして、嘆き悲しみながら縛られ処刑されなければならないというのではあるまいね。追放されるとして、笑いながら機嫌良くゆとりを持ってそうすることを誰が止められる?それから、秘密を話せと強要されようが縛られようが首を斬られようが、肉体は支配できても意志まではたとえ神でも支配できないのだよ君。

処刑というおそらく人間にとって最も恐ろしいものにも、このように対処しろとエピクテトスは言うのです。

そうです。ストア哲学は現実にはめちゃくちゃ難しく、はちゃめちゃに厳しい哲学なんです。まさにストイックの語源に相応しい哲学なんですね。

エピクテトスは続けます。

👴<哲学を学ぶ者は以上のことをよく考えて、毎日書いて練習しなければならん

ストア哲学の思想を昨日今日知ったからといって、それだけで処刑を心穏やかに受け入れられるわけありません。あまりに無理があります。

テニスのルールを知ったばかりのド素人にウインブルドンで活躍してこいというようなものです。

だから、毎日シミュレーションして書いて練習して、常々備えとけよ!とエピクロスは戒めているわけです。

自分次第のことは淡々とやる、どうにもならないことは放っておく


そして、この厳しいストア哲学の真髄を体現した人物が実際にいました。
パコニウス・アグリピヌスというストア哲学者で、暴君で有名なネロ帝に反逆罪(おそらく冤罪)に問われたときのエピソードが語録に綴られています。

〜アグリピヌスの自宅にて〜

👨<大変です!元老院であなたの裁判が行われています!

👴(アグ)<うまくいくといいが。でももう五時だ。

アグリピヌスはいつも五時になると運動と冷水浴をするのが習慣だった。

👴(アグ)<運動しに行くわ

〜運動後〜

👨<大変です!有罪になりました!

👴(アグ)<追放か?死刑か?

👨<追放です!

👴(アグ)<財産はどうなった?

👨<没収されませんでした

👴(アグ)<じゃあ追放先の途中の町で食事しよう

これぞまさにストア哲学者の鑑でしょう。
自分が同じ立場にいたとして、こんなことを言える気がしません。

アグリピヌスのエピソードの結びに、エピクテトスはこんなことを付け加えています。

👴<これが、きちんと心がけることを弁えて備えたということだ。
今死ななければならないならすぐ死のう。
あとでというなら、時間になったら運動して、食事して、それから死ぬべきときに死のう。

このように、淡々とそのときどき、自分に出来ることだけを心穏やかに実行できるようになるには、スポーツや仕事や勉強と同じく、毎日の弛まぬ努力が必要になります。

実は日本にはこのようなストア哲学のやることを淡々とやる、という行動規範を、たった一つの短歌で表現したものがあります。

二宮尊徳翁の道歌と言われていますが、この道歌をもってこの記事の締めくくりにしたいと思います。

「この秋は 雨か嵐か知らねども 今日の勤めに田草取るなり」

二宮尊徳


参考文献
中公クラシックス 鹿野治助訳 『エピクテトス 語録 要録』
早川書房 マッシモ・ピリウーチ 月沢李歌子訳 『迷いを断つためのストア哲学』

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