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note執筆の継続は難しい。

noteを見ていて思うこと

noteは、ユーザー全員が書き手であり、読み手である。
人間、読み手として面白い記事を読みあさっているうちに、自分でも記事を発信したくなるもので、私も昨年からたまに記事を書くようになった。

しかし、「書き手」に注目してnoteを眺めると、桐壺源氏の大変多いことに気付く。記事を1つか2つ投稿したと思ったらパッタリ更新が途絶えてしまうユーザーのことだ。

はたして、「noteはじめてみました!」以来、投稿のない数多くの人達は今日もnoteを楽しめているだろうか。そんなことに思いを馳せながら、自分なりのnoteとの付き合い方を以下に書いてゆく。

きりつぼ‐げんじ【桐壺源氏】
「源氏物語」を読み始めても、最初の桐壺の巻で飽きてやめてしまうことから、中途半端でいいかげんな学問や教養のたとえ。隠公左伝。

「#noteはじめました」特有の勢い

noteで初めて記事を書いたとき、このハッシュタグを付ける人が多いが、これが付いた記事を見ていると、やたら長文であったり、なぜnoteを書いたかを書いたり、これからの執筆に対する意気込みを書いたりといくつかのパターンが見て取れる。この初投稿こそが枷になってる様に感じる。

「これから毎日投稿したい!」だの、「なにか新しいことを始めようとおもってnoteはじめました」だの書いているが、毎日noteを書くなんてのは常人には凡そ無理な話である。

なぜ初投稿以来、ぱったりnote更新が止まってしまうのか?
理由としては以下が多いのではなかろうか。

・書くのがしんどくなった
・誰も見ていない気がしてきた
・毎日書くって宣言したのに、日を開けてしまった

書くのがしんどい事に関しては、ブログブームの時代にもあるあるな現象であったので、noteが悪いわけではないが、繋がりを感じづらいのはnoteの構造的問題を感じる。

しかし、すごいニッチな話でも、見てくれている人はいる。逆に稚拙な文章でも、恥ずかしがる必要は無いし、読み手側はそんなことは気にしていないと考えてもいい。毎日投稿します!なんてのも宣言する必要はないのだ。(良くも悪くもあなたの文をじっくり読む人は居ないのだから。)

バイアスを外そう

書かなきゃいけない、主張がなければいけない、そんなのはユーザーの思い込みでしかない。改めて感じて欲しいが、noteは完全に自由な場なのだ。

バイアス(思い込み)を外して、コメントを書きたくなったら書けばいいし、書かなくてもいい。忙しい日があればnoteを見なくたっていいし、暇なときに見れば良い。初心に返ってnoteを楽しもう。

そんなことを考えた2020年の正月だった。これからは毎週noteを書きたいと思います!(違)

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