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幻想的空想的妄想的ジブリ解釈です!(ジブリ作品雑感)6

いくつかのジブリ作品
 
《このシリーズは、すでに視聴されている方を対象としています。また、これ以前の「幻想的空想的妄想的ジブリ解釈」シリーズに触れているところがあります。ご容赦ください。》
 
【はじめに】
 これまで、2つのジブリ作品について妄想的に解釈を試みてきました。しばし、息切れしておりますので、ここで一服、休憩して、ジブリ作品についてこれまで色々と妄想したことについて雑感を書いてみます。
 今回の雑感の対象作品は、『ハウルの動く城』、『借りぐらしのアリエッティ』、『魔女の宅急便』です。
 それでは、まず『ハウルの動く城』についてです。
 
【『ハウルの動く城』について】
 いくつかのジブリ作品については、ちょくちょく考えてみたのですが、どうしても細部で納得のいかない問題があり、ここで公開するのを躊躇しています。その代表が『ハウルの動く城』です。『On Your Mark』でお話しした手法で分析してみますと、非常に面白いメッセージが出てくるのですが、ハウルの深層心理に入るところ(ドアの回転板の黒)からの一連のシーンの解釈が難しいです。
 もう少し、作品内部のメモを取りながら見る必要がありそうですが、現在のところあまり妄想が膨らんでいきません。いつか何か浮かべば、このnoteに書くかもしれませんが、今のところ放置しております。
 少しだけ書けるかもしれない部分は、帽子とそのお店、動く城、ソフィーの城に入った人や動物たち、ソフィーにかかった魔法、などについてです。
 ソフィーが帽子をかぶっている時間は、若い時も老婆になった時にもあります。どういう時に、帽子をかぶって、どういう時に、とっているのかを調べてみると面白そうです。アニメの一番最後のシーンで、動く城は空を飛んでいます。その城にいるソフィーは帽子をかぶっていますが、今までの帽子と違い、着ている服と共にかなりファッショナブルな帽子でした。
 動く城は、外も内も汚らしく乱雑です。ソフィーが入ってから少し内部はきれいな状態になりましたが、最後のシーンでも外はまだ乱雑のようでした。この城は、カルシファーという火の悪魔が、ハウルの心臓を動力源にしているようです。
 この城に入った人たち(動物も)の性格や人間性も興味深いです。こういう人たちを受け入れることで、ハウル自身も変化しているように見えます。
 荒地の魔女によりソフィーにかけられた魔法は、不思議なことに時々その効力を失う時があるようです。寝ている時などは、元の若い頃の顔に戻っていました。いったい、ソフィーのどこに(何に?)魔法がかかっていたのでしょうか。こんなことを考えてみるのも楽しそうです。
 まだまだ他にもありそうですが、とりあえず、以上の点についていくらか妄想したことがありますが、まだ十分に調べていませんので、今のところあまり書けそうにありません。
 
【『借りぐらしのアリエッティ』について】
 『借りぐらしのアリエッティ』は、宮崎駿監督作品ではありませんが、『On Your Mark』の手法で分析できるように思っています。アリエッティ自身が何かを示しているように感じます。
 アリエッティは小人ですが、まるで人間そのものです。彼女の視点からは、屋敷の中は、まるで巨大な自然の崖に囲まれた世界のように見えます。その屋敷に療養にやってきた翔少年から見ると、アリエッティは、まるでネズミのような小さな存在ですが、それでも翔少年はアリエッティを特殊な人間として対応しています。ただし、翔少年の善意からの行動も、アリエッティたちにとっては、巨大な生物がアリエッティたちと関わるような事態になってしまうので、その善意もむなしく、アリエッティたちには時には自然災害のような迷惑な結果を引き起こします。
 アリエッティの視点も人間の視点でしょう。私たちは、周りの環境からいろいろなものを借りているのかもしれません。一方、翔少年の視点も人間の視点でしょう。私たちは、善意から自然にいろいろと関わることがありますが、それが果たして良い結果を生むかどうかは別問題です。
 このように、アングルがぐるぐる変わって、どちらの立場から世界を見ているのか、目まぐるしい感覚を呼び起こしてくれる変わった作品です。
 最後に、翔少年は手術をするようですが、その結果はどうなったのでしょうか。
 
【『魔女の宅急便』について】
 これも宮崎駿監督の有名なアニメですね。ほとんどの皆さんは、ご覧になっていると思います。この作品には、原作がありますが、原作に忠実というよりは、その内容は宮崎ワールドに大きく変化しているようです。宮崎監督の作品は、原作があっても、その世界は変形しています。それがまた、魅力でもあるのですね。
 この作品には、謎らしきものは見当たらないように感じますが、一ヶ所、少し分かりにくいところがあります。もちろん、途中スランプになるところなど、解釈はいろいろとできると思いますが。
 その分かりにくいところというのは、森の中での画家のウルスラとの会話の中にあります。会話はほとんどそのまま伝わるのですが、一ヶ所何気なく素通りするところがありました。何を言っているのか、ハテナという感じですが、シーンがすぐ変わるので、見ている人は次へ行ってしまいます。皆さんは、特に疑問に思わなかったでしょうか。問題なく理解できた、という人は理解力の優れた人だと思います(残念ながら、私はよく分かりませんでした)。
 また、「飛ぶ」という観点でこの作品の内部構成を比較検討してみると、面白い対比が浮かび上がってきます。キキが飛べる時は、友達のトンボは飛べない状態です。この時、キキは意識しなくても簡単に飛べます。トンボは飛びたくてしたかありませんが、飛べません。トンボが飛行船で飛んでいる時は、キキは飛べないようです。この時、キキは、飛びたくても飛べません。途中、自転車に乗って2人が一瞬、宙に浮かぶ時がありますが、すぐに落下してしまいます。最後のシーンでは、2人はどうやら飛んでいるようです。というように、2人の関係を対比してみると、飛ぶという意識や意欲との関係もからんできて、興味深いです。
 
 他にも、ご存知のように、宮崎駿作品には、話題作がたくさんあります。その中でも、『千と千尋の神隠し』は海外でも高評価で賞を獲得しています。この作品も、途中まではいいのですが、終わりの部分で、電車に乗って銭婆に行くところがありますが、この部分、どう見ても大幅にシーンがカットされているように感じました。このカットに触れていたのは、ジャーナリストの立花隆さんでした(今手元に資料がありませんので、出典明記できません。すみません)。きっと、元の作品では3時間を超えてしまっていたのでしょうね。それでは、子どもたちには長すぎますものね。カット前の作品も、DVDとかBDなどでは、収録してくれたらよかったなあ、と勝手に感じていました。
 今回はここまでで失礼します。しばらく充電しております。では、また。

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