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数万のいいねよりたった1つのコメントを求めて

不特定多数に向けて書くというのは、暗闇の中で見えない何かに手を伸ばすような感覚だった。

学生時代、いわゆるWEBライターというものをやっていた。

WEBメディアの世界は、数字が一番の指標になる。記事のPV,SNSのRT/いいね、数字の大きさでコンテンツの良し悪しが決められた。タイトルの書き方・サムネイルの選び方でPV数がまったく変わる。事実を捻じ曲げず、人を傷つけないことを第一に、私も試行錯誤した。

何百本と書いていくと、コツは掴めてくる。RTやいいねが増え、PVが伸びていく。些細な工夫が数字に即反映されるWEBメディアは面白かったしやりがいがあった。でも、そこには誰も存在しない気がした。記事がたくさん読まれても、情報として処理されていき、数時間後には忘れられているようなものだった。「誰かに届いた」という確かな実感はなかった。

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大学を卒業して社会人になるタイミングで、WEBメディアのアルバイトを辞めた。新しい仕事にも、数字は求められた。仕事に数字がついて回ることもわかった。人をフェアに評価できるのは数字だから。卒業以降、自分で何かを発信する機会がなく、無償に文章が書きたくなりnoteを始めた。

もちろん、いいねの数が気にならないわけではない。たくさんいいねがつくと、共感しれもらえた気がして嬉しい。でも、たくさん読まれても何か自分の中で満たされない部分があった。そんな時、ふと書いたあるnoteのことをTwitterで触れてくれた人がいた。

「今日も頑張ろうと思えた」

学生時代からずっと抱えてきたもやが晴れた気がした。

そのnoteはめちゃくちゃ読まれているわけでも、たくさんいいねがついているわけでもなかった。けれど、たった1つのコメントに、「ちゃんと届いた」という実感が持てた。

たった1つのコメントが、たくさんのPVよりも嬉しかった。確かに存在する誰かに、ちゃんと届いているような気がしたから。そこにいる誰かの感情を揺さぶった感触があったから。

Twitterで書いてくれた人も、次の日になったら私の文章のことなんて忘れているかもしれない。それでも、一瞬でも、誰かの気持ちを震わせた、生活を変化させるきっかけになれた気がした。

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コンテンツが溢れ返る現代、数分前に見たTiktokの内容すら覚えていない。浴びるように消費し、一瞬で忘れ去られていく。そんな中でも、誰か一人の目に留まり、感情を揺さぶられるような文章を書いていきたい。

自分が10年前に見たMVや小説のように、何年経っても糧となれるようなものを作りたい。

数万のいいねよりも、誰か一人の心を突き動かしたという確かな感触を求めて。

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