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「自由」を軽く見るな【エッセイ】

安倍元総理が凶弾に倒れたのは悲惨極まりないことであった。亡くなった人物を悼むことはその他の諸問題とは切り離して考えるべきだという立場の元、心よりお悔やみ申し上げる。

さて、安倍元総理が倒れたのは凶弾ではなく、”教団”であったのかもしれない。旧統一教会との関係が明るみに出、一部の国会議員達は慌てふためいて対応に追われている。これは立派な政治腐敗だ。長年旧統一教会の霊感商法問題に取り組んできた紀藤弁護士や、ジャーナリストの鈴木エイト氏の見解は実に見応えがあり、信用に足るものだという印象を受ける。

一方、当の国会議員達の答弁といえばお粗末なものである。「そういう認識はなかった」「知らなかった」口々にそう言い、少しでも言い逃れをしようとする姿勢が丸見えである。実際問題として、我々の批判は、一部の、しかも大物に対してより集まらざるを得ないからして、小物であればあるほど逃げられる確率は上がる。皮肉なことだ。

山際大志朗経済再生相の答弁は実に面白い。旧統一教会の関連団体への出席について聞かれ、「ホームページなどに載っているのであれば、出席したと考えるのが自然」などと宣う。このような『出席はしたかもしれないけど、いちいちそれがどんな団体なんてしらべないからね~』戦法で切り抜けようとする愚者は存外多い。ある議員などは、「色んなところから頼まれたら全部出す。」らしい。寝ぼけていてもそんなことはしない。

以上はどれ一つをとっても許してはいけないことである。
加えてさらに、看過できない文言がある。
「信教の自由」は守られる必要があるー。
答えに詰まった彼(女)らが口にするこの言葉である。TVでの討論などを見ていても、この発言が出た途端に、それまでの勢いが弱まり、コメンテーターが糾弾をやめる場面を見かけた。関連記事でも、この文句とともに、結論をあいまいにして締めるものを見かける。『発言の自由』『表現の自由』『信教の自由』昨今よく見かける言葉ではあるが、正しい使い方がなされているだろうか。


そもそも『自由』とは、我々人類が、とてつもない長い時間をかけて、獲得してきたものだ。そのために多くの血が流れ、ようやく勝ち取ったものだ。

自由とは、制約がない状態のことを指すものではない。自由とは制約がない状態ではなく、むしろ制約を取り去った状態だといえる。自らに課せられた制約がなにかを把握し、それを取り除いたときに現れるのが自由だ。そう考えている。

だからこそ、我々は自由になったからと言って、何でもしていいというわけではないのである。この点が、よく誤解されていることだ。『表現の自由』があるからといって、なんでもかんでも発言していいわけではない。『信教の自由』があるからといってどんな宗教団体も一様に守られるべきではない。

自由と制約(不自由といってもいい)は、常に隣りあわせだ。分かりやすく、表現の自由を例に話そう。表現の自由は、常に批評の自由、つまり反論の自由と表裏一体と捉えられるべきである。Aということも、Bということも認められれば、notAということも、notBということも認められなければならない。(念のために言っておくと、表現の自由が仮にないとすると、Aと言うことができない。)これを、昨今では、表現の自由があるからといい、発言に対する批評を行わないことを良しとする風潮があるように見える。

此度のケースも同様である。信教の自由があるから、と議論をやめてしまっていてはいけない。我々が目指すべき自由とは、全てが許される状態なのではない。むしろ許されることから許されざることとの間に確固たる線引きをすることでようやく保たれる聖域である。我々は今もこれからも、自由が所与のものではなく、常に保護し勝ち取っていく必要があるものだということを覚えておく必要がある。

今回の旧統一教会の問題を機に、反カルト法の制定は急務であろう。線引きが難しい、という声があることも把握している。しかし、難しい、ではない。やらなければいけない。幸い、フランスには参考となる反セクト(カルト)法がある。こうした先進的な技術や法を学ぶことに全面的に賛成の立場だ。今こそ、すべてが許されるという不健全な”自由”観を捨てなければならない。自由を言い訳にして逃れようとする国会議員達よ、「自由」を軽く見るな。


参考文献


共同通信が全国会議員712人を対象に7月~8月に行ったアンケート。旧統一教会との関係を4つの質問により尋ねている。回答率は83.4%。関係があると認めた117人の8割近くは自民党だったという。回答の中で、「信教の自由」は守られるべきという文言が散見される。


参照


山際経済担当相の発言


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