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上田秋成/雨月物語

大学生の頃に読んだものの再読。

怖い話を読んでいると必ず引き合いに出てくるのがこの雨月物語。

なんとなく古典というイメージがあったけど、作者の上田秋成は江戸の人で、この本が出版されたのも1776年のことだった。

概ね日本、中国の古典を元ネタとし、時には複数の物語を下敷きに上田が書き換えた、いわゆる翻案小説である。

鵜月洋によるあとがきを読むとなぜこの雨月物語が、日本の怪異譚では異彩を放っているのかというと、

一つ、翻案小説であり(いわゆるパクリではなく)元ネタが各所に示唆されている

一つ、上田の思想が色濃く反映されており、幽霊・異形たちの個性が非常に強く魅力がある

一つ、文体にこだわりがあり非常に華美である

ということのようだ。


江戸の怪異譚というというと「狗張子」に代表されるような、各地で蒐集された誰がこのような体験をしたという、今で言う実話怪談の体をとっていた。

つまりそこで描写される怪異というのは概ね、唐突で辻褄が合わない、意図を読み取ることができない(だから怖くて面白いのだが、物語としては釈然としないという感想になりがち)。

従い怪しいものというのはよくわからないが、人間に対して害意をもった悪いもの、という存在になる。

これに対して上田秋成の描く怪異たちは恐ろしくも非常に魅力的な存在である。

彼らはもともとは人間だったこともあったものも多く、非常に人間的な個性と魅力を備えている。

同じくあとがきによれば、普段は抑圧されている衝動を怪異となって素直に表現するから、秋なりの描く異形たちは魅力的だという。

権力闘争の果に自分をはるか遠方に流した者たちの一族を呪い続ける崇徳天皇、

男同士の約束を果たすために自分から死んでひと目友に会いに来る男、

不実な夫を執念深く追いついには惨殺する女、

愛欲の果に死肉を思考するようになった坊主、

恐ろしくも彼らの動機に関しては邪悪と捨てきることはできない。

読者は彼らを恐れつつも同情を覚え、彼らの傍若無人の振る舞いに密かに憧れを抱く。


この世に恨みがあるものが幽霊になって現世に出てくるように、自然現象の象徴や教化のための説話の役割としての存在ではない、人間的な個性をもった怪異たちの動機というのはたいてい執着である。

いわば社会的、個人的な悲劇によって達成されなかった、達成されるべきではなかった執着は人間外の存在になることで初めて達成される。

言い換えれば生前果たされることがなかった、許されなかった執着を幽霊はじめ異形の存在に落とすことで達成させてやる。

たとえば「吉備津の釜」の貞女磯良は明らかに彼女に理がある。

人間なら髻を残して惨殺すればお縄だが、怪異ならそれは怪異のすることなので仕方がないというわけだ。

怪異にすることで生前の執着を許してやる、そういう装置として怪異譚がある。


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