発達障害と意思疎通 Low-ContextとHigh-Context
自分は日本とアメリカ両方で大きく括ればほぼ同じ分野で働いてたことがあって、でも比較すると働きやすいのは圧倒的にアメリカだったなあと思っている。
ビザがうまく行かなくなって日本へ戻ってきた以上、移民として働くことの難易度を折りこめばそれは当然給与とか福利厚生とか、そういう見えやすい点からそう思うのじゃない。市民権もグリーンカードもなしでポスト911のアメリカで働くのはものすごいハードモードで、単に生きて暮らすことが常に不安定さと潜在的なストレスに真綿のように包まれているっていう状況は、今考えるとやっぱり普通じゃないなあと思う。
でもそれを考慮に入れても、発達障害の人である自分にとって働きやすさというか、もっと根本的な人との関わり、意思疎通のしやすさが段違いに楽だったと思う理由はなんだろうと考えてて、ある程度腑に落ちる概念に遭遇したあと、更にちょっと考えてこの度言葉にまとまったので書いてみる。
今回はざっくりと観念的なことだけ書くつもりなので、実際に体験した具体例的なものはそのうち別にまとめます。
*自分が暮らしてたのはアメリカでもマイノリティが多く非常にリベラルな地域でした。アメリカは州によって全く文化や制度が違い、州をまたげば違う国、という感じなので、「アメリカだからこう」と平板に一般化するつもりはありません。自分が見てたのはアメリカの(それもいい方の)一面でしょう。同様に「なのに日本はこう」と単純に貶してるつもりもありません。
変なのが湧くとめんどいので予め書いときますよ。
意思疎通の問題
自分はASD傾向があるので、相手の意図を汲み取るのが苦手だという自覚がある。汲み取ろうと先回りして空回りした挙げ句カスりもしないことのほうが多い。そして仮に汲み取れたとしても、ADDのおかげか、相手の意図に留意しつつペースを合わせて動くというのも苦手。だから人間関係が長期的にうまくいった試しがほとんどない。
感情や空気といったふわっとしたものは自分には判断の仕方すら多分あまりよく分からなくて、そういうもので大部分が動いている人間関係なるものには、信頼とか絆とかつながりとかにたどり着く以前に、根深い不安を感じてしまう。その不安感のせいで、ひとと向き合うことに最初から諦めというか、無意識に1段降りていつでも逃げ出す準備をしているような意識があるのも最低だと分かってはいる。
だから仕事だって、仕事それ自体よりもそこに付随する意思疎通(の中の主に日本で「コミュニケーション能力」と呼ばれる「他人の空気や意図を読んで一緒に同じように調和を乱さず行動する」という高度なマルチタスク)に問題を抱えがちで、日本では3回ほどクビになっている。
それがアメリカでは、その意思疎通でストレスを抱えることがびっくりするくらい少なかった。相変わらずひととの親しい関係の維持は苦手で、会わなくなるとすぐ疎遠にはなる。でも自分の感情や意図を通じてひととつながりを持っても大丈夫だという安心感は初めて持てたし、周りと調子を合わせられなくても、そのせいで他のことが連鎖的にダメになるいつものアレは起こらなかった。
現地の日本人コミュニティでは相変わらずボロが露呈して、誰かと連絡先交換する前にフェードアウトした。そんで日本に戻ってきたらやっぱり全部もと通りだった。つまり自分のポンコツっぷりは変わってない。なのに、周りの世界が理解できなくて半径1mの空洞にぽつんと置き去りになったような、意思疎通にまつわるあのよく分からない不安を感じなくてよかったあの感じはなんだったのか。
ジョイ・ラック・クラブが描く移民一世と二世の心理的すれ違い
今年の始めの方に読んだエイミー・タン著「ジョイ・ラック・クラブ」。
http://www.amazon.co.jp//dp/4789725286
(自分が読んだのは英語版なので、例によって作中の固有名詞など翻訳版と記述が違ってる可能性があります。分かりづらかったらごめんなさい)
中国から移民してきた母親とアメリカで生まれ育った娘、総勢4組。どの母娘も微妙にこじれている。自分では叶えられなかった理想をやり過ごそうとしてきた親世代、だからこそ娘に寄せる過剰なまでの期待、その期待の中にある根深い文化的相違、それに言葉にもできない本能的な違和感を抱えて育つ娘。
お話的にはフェミニズム的でありつつ(特に親世代の中国での過去を描く章にその気配が強く、まるで暗黒大陸のような描写もされてるので話八分に読むのが吉)、最終的には母娘間のこじれを家族愛的にまとめてしまった感があって消化不良な印象もありつつ。文化的な価値観の相違、同性の親子の関係性、社会とジェンダーロールなど、家族愛より面白い要素をせっかくなんだからもう少し掘り下げて、ハッピーエンドじゃなくてもまとめてくれたらなあと思いつつもテーマ的に面白く読んだ。
印象に残ったのは終盤のリンド、ウェイバリー母娘のやりとり。
「愛してる」なんて言葉で言わなくても娘は分かってるだろうという母。だって母親が娘を愛してるのは当然なんだから。態度に示さなくたって自分は娘に色々なかたちで愛情を注いできた。
母親の期待と自分の理想は違う。だからぶつかりながら自分の納得できる生き方を選んできた。でも母親は少しもそれに誇りを見い出してくれないみたい。だって自分を肯定してくれたことなんかないじゃないか。
ところでだいぶ前に発達障害界隈のTwitterで目にしたこちら。図式がまんまこれだと思って。
発達どうのこうのを置いても人間関係あるあるなんだけど、じゃあこれってなんだろうなと思って行き当たったもののひとつがLow-context/ high-context論だった。
Low-ContextとHigh-Context
社会言語学的なことは専門じゃないので、自分のざっくりとした解釈で失礼。
・大きく分ければ世界にはlow-contextとhigh-contextな文化がある。
・Low-context culture = 言語や態度などで明示されないものの割合が低めの文化(以下めんどいのでローコンと略します)
-コミュニケーションにおいて、個人の考えを明確に言語化、視覚化して伝えることに価値を置く。
-意図の背景が不明な場合にはしばしば説明が求められる。
-何かを伝えるときには見えるようにすることがまず第一。分かってほしいなら提示しろ。奥ゆかしさ?何それおいしいの?
-ジョイ・ラック・クラブの場合はアメリカ文化がこれ。
・High-context culture = 明示されないものの割合が高めの文化(以下ハイコン)
-情報や意図を明示する以上に、その奥でしばしば示されない意図や意味の豊かさや、それを共有することにも価値を置く。
-暗黙の了解、相手の意図を汲む、など、表に出された意図の背景にある程度共通の認識があることが前提。
-伝わることは大事だけど、言葉や態度は全てじゃない。表せないものを安易に見えるかたちに託すより、そんなもの表さなくても分かり会える関係性が大事。
-ジョイ・ラック・クラブ中では中国文化がこれ。日本は中国とは表に出すものの性質が違う上に、中国以上にハイコンだと個人的には思う。
どっちが優れてるとかではなく、ともかく自分にとって意思疎通がスムーズに進むのは圧倒的にローコン文化の中でだった。
ローコンなアメリカ、ハイコンな日本
背景にあるのは、コミュニケーションを支える共通認識へのベクトルの違いだと思っている。
アメリカ文化がいつからローコンなのか、そもそも程度の差はあれ全土でローコン優勢なのかとかは今は置いとくとして、なぜ(少なくとも自分の暮らしてた周囲では)現在ローコンなのかについては、多分多文化の混交が強いからじゃないかなと思っている。
道を歩いてもなかなかいわゆる公用語が聞こえてこなくて、もうなんか茶色いのやら黄色いのやら矢鱈体積があるのやら短いのやら、明らかに見た目が違うやつばっかりの環境で暮らしてると、自分の常識はこの人たちには共通認識でもなんでもないし、認識を一致させようと仮にお互い死ぬほど尽くしても死ぬまで分かり合えないことが絶対にあるだろうなというのが骨身に沁みてくる。
お互いに違いすぎるので、コミュニケーションは共通認識を手探りで組み上げるところから。
認識の一致を見るのは無理でも近いものを作ろうとは歩み寄る。そのためには各自持ち寄った単位の違う物差しを使いながら、質問と説明を繰り返す。でもそうして出来上がった共通認識が一致してるはずがないのはもう当然のことだし、そもそも自分のネイティブな持ち物ではないので、あっけらかんと出来を疑うし、なんならいつでも更新可能ぐらいの感じで終わらない増改築を繰り返す。九龍城か。
そして不理解の責任はイーブンに負う。だってどの単位が相手より少しでもより正しいかとか、判断できないから。これだからヤーポン法はとかは思うけど仕方ない。相手だって尺貫法とかバカじゃねーのときっと思っている。
対する日本は、ベクトルが真反対からだという気がする。
無意識の共通認識への信頼があって、その共通認識は多分個々の認識よりかはいくらか正しくて普遍的な、基準になるものだという。不理解の責任は基準との差異がより大きい方により重くあるし、自分の物差しで測ったら正しいのに、という主張にはあまり意味がない。
「基準があるんだから認識の差異は正すことができる」と思いながら、お互いどこまで行っても認識の差異が縮まらないのを訝しんでふと手元を見ると、自分の(もしくは相手の)持っていた物差しは目盛りがズレていた。そういう時、それに罪悪感や怒りを感じがちにも見える。
そしてその基準には実は単位がない。
ローコン世界での意思疎通の方法をいつも再確認させてくれたものに、"Am I getting my point?" という表現がある。
自分の意図を相手が理解しているか確認するとき"Do you know what I mean?"は確かに一般的な表現だけど、こと自分が尋ねるときには、どこかに理解(もしくは不理解)の責任を相手に負ってほしいと思う意識があるようで罪悪感があった。
分からないことの根本にある認識の誤差に自分でも気づかないまま、「そんなこと」がどうして分からないのか混乱した経験がトラウマになっているからかもしれない。
あなたと私には認識の差異がある前提で、理解の責任を自分も同様に負うと示せる"Am I getting my point?" は、考えや言葉をまとめるのが苦手な自分には錨のような言葉だった。
それでもハイコンの世界で生きるポンコツ
日本にいると、時々自分はガイジンと思ってもらったほうが楽なのになと思うことがある。
たまたま日本に生まれて見た目が日本人で母国語が日本語だけど、日本人なら無意識に共有してるはずの肝心の共通認識があまりうまく機能してないので、もういっそ文化的背景の違う、言葉は通じるけど話は通じない人として「ああこいつガイジンだから細かい意図通じてないけど仕方ねーな」くらいに捉えてもらったほうが双方楽なんじゃないかと。
人種や文化の違う集団の中では幸運にも差別や蔑みに遭遇することがほとんどなかったのに、人種も文化も同じはずの人たちに近づいた途端、何かが明らかにうまくいかなくなるのを感じる。
相撲を知らない相手に散々説明した挙げ句「スモウレスラー、クール!」とかルチャリブレかみたいな反応で言われて脱力はしても腹は立たないように、分かり合えないことを許容してなお嘆かない余地がお互いに欲しい。
そしてハイコンの世界でそれがなかなかに難しいなら、周りの人が他人の意図を手繰り寄せるのに苦もなく使っている(ように見える)方法を自分は知りたいと思う。
それには内向きの焦りや不安からくる問いかけでなく、ひとへの無償の好奇心が必要なんだろうけど、それを克服する方法を自分はまだ掴めないでいる。
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