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オーディオの功罪

再現システムであるオーディオ(映像含め)が普及する遥か以前、そこに行かなければ体験出来なかった音楽、演劇、映画などの娯楽は、当時は日常から非日常の世界へ連れていってくれるかけがえのない体験だったのかもしれない。
その特別さは今からは想像もつかないくらい貴重なものであったであろう事は想像がつく。
今の疲弊した日本では仕事帰りにコンサートや劇場に行くなんて事は贅沢過ぎるし、そんな精神的余裕もない。帰ってきて音楽を聴く気もおきないのではないだろうか。
いずれにせよ社交場としてのコンサートや演劇の役割はもはや機能せず、純粋な鑑賞としての役割も薄れてきた。
家に帰れば手軽に音楽も聴けて映画も観れる。
実際こういう自分もホームオーディオ、ミニミニホームシアターなんぞを楽しんでいる。オーディオ機器や映像機器など、高いモノはそれこそ家が建つほどで価格の高さは天井知らず。ケーブルに関しては何10万とかするものもある。
しかし面白いのは高ければいい音するのかといえば全くそんなことはない。
何百万もするスピーカーをただドンと置くより、1本1万もしないスピーカーをあーでもないこーでもないと工夫しながら配置を決める方が余程生で聴いているような音がする。
そうやって設置したマイコンサートホール、マイライブハウス、マイシアターで楽しむ音楽や映画はかけがえのないものだ。下手をすると生で聴く音楽や生で観る映画よりいい事もある。なにしろ手軽だし、出不精な人間にとってはサイコーである。映画用にはリアやサイドにもスピーカーを設置したり、重低音用にサブウーファーやセリフ用にセンタースピーカーもある。
そうする事によって映画製作者の考えたサウンドデザインを家で堪能出来る(最近では天井にまでスピーカーを配置して上からも音が鳴る)。映画館ではそのサウンドデザインで上映しているが、音はデカく迫力があってもデカ過ぎるせいでサウンドデザインがボケてしまう事の方が多い。クルマが横を通りすぎたり、後ろで爆発音がしたり等サイズがデカ過ぎて文字通り『ものすごくデカい絵を間近で見せられているような感覚』である。
その点家でそこそこのサイズのテレビで鑑賞した方がバランスがいいし全体像がつかめる。
音楽も同じで、オーケストラを聴くにもちょうどコンサートホールの後ろの席で聴くような距離感で聴けるので、部屋がコンサートホールやライブハウスや映画館に化けてくれる。
『こんな便利でお手軽なら出かける必要ないな』とミュージシャンとしての自分の首を絞めているとも知らず、“おうち生活”を満喫しているわけだが、“生”でなければ味わえない“感動”がある事は承知しているにもかかわらず、外へ出かける事が億劫な人間を外へ連れ出すためにはどうすればいいのか。
考えてみると、“自分が演奏して人に聴いて欲しい”か“自分にとって大切な人が演奏するのを聴きたい(見たい)”かのいずれかだと思う。
親からすれば我が子の“晴れ姿”は雨が降ろうが槍が降ろうが万難を排して見にいくであろうし(自分もご多分に漏れず)、彼氏や彼女の演奏なら聴きに行かなければ、後々どんな修羅場が待っているかわからない。
とにかく演奏する人間の“披露の場”としてしか“ライブ”としての生き残る道はないのではないかとさえ思う。
無くならないとはいえプロのコンサートの存在価値は減るであろう。
家でオーディオ聴けば済む。
わざわざコンサートに出かける人は余程の好き者だ。吐くほどコンサートを聴いてきた自分が言うのだから間違いない。
YouTube配信でオーケストラなんか聴いても全くもって面白くないが、コロナ騒動が添加材となり音楽業界がそちらへ舵をきったのも生き残りをかけた必然なのだろう。
自分は見た目より音重視なので、音楽はスピーカー2本で聴いた方が想像力も高まるし、より神秘的だ。映画じゃあるまいし、ちょこちょこカットが変わって色んな楽器見せられても音楽とのバランスがとれない。映画の方が余程考えられている。
いっそのことコンサートホールで見るように定位置で動かさず全体像をずっと映している方が音楽に集中出来ると思うが、パンピーは喜ばないか…



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