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【エッセイ】小さいころ怖かったもの

お化けは、「今も昔も」怖い。むしろ、予備知識を蓄えてしまったから今の方が余計に怖くなっている場合もある。

虫は、「今は」怖い。小さいころは野原を駆けまわり、バッタやカマキリなんかを豪快に捕まえては家に持ち帰って観察していたが、今はそれらを触ることさえできなくなってしまった。

怖いものは人にとっては様々で、それを克服できる場合もあれば、ずっと怖い場合もある。また昔は全然大丈夫でも歳を重ねるごとに怖くなるものもある。

こう考えると僕達は常に何かの恐怖と共に生きているのかもしれない。小さいころおばあちゃん家で夜にトイレに行くのを怖がる僕に付いてきてくれたお父さんには何も怖いものなどないと思っていたけど、お父さんにはお父さんの、あの頃の僕には理解ができない、何か怖いものがあったんだろうなと今は思う。

そんなおばあちゃん家のトイレに繋がる暗い廊下同様に僕がとても恐れていたものがある。今の僕はそれに対する恐怖はない。つまり僕はその怖いものを克服したことになる。今回はそれについて書いていきたいと思う。



僕が恐れていたのは”ケイン”だ。

中学校の英語の教科書に出てきて呑気に”Could you tell me the way to the station?”なんて聞いてきそうな名前だが、僕の恐れていたケインはそんな丁寧に道など聞いてこない。恐らく"If you don't tell me the way, I kill you."となるだろう。

その僕にとって恐怖の塊とも言えるケインとはWWEというアメリカのプロレス団体に所属しているプロレスラーだ。別名"赤い処刑マシーン”。身の毛もよだつ異名を持つ男は身長が2メートルを超え、体重も150キロ近くある。興味を持った人は一度ここで”ケイン WWE"と検索してみてほしい。かなりおっかない見た目をしているはずだ。そしてそしてその顔を思い浮かべたまま読み続けてほしい。

僕は小学校3年生の時にWWEというアメリカのプロレス団体に出会った。WWEに関してはいつかしっかりと記事を書きたいと思うので、ここではサラッと紹介しておく。まずプロレスをボクシングや柔道、空手などと同じくくりにして”格闘技”と思っている人も多いと思うが、プロレスとそれらの競技には大きな違いがある。一番大きな違いとしてプロレスには”ギミック”というものが存在する。簡単に言うならば選手は”演技”をしているのだ。もちろんプロレスは屈強な男たちが互いに身体をぶつけ合う立派なスポーツである。ただし、そこにはシナリオが存在するのである。シナリオなしのボクシングや柔道をスポーツと呼ぶならば、プロレスは”スポーツエンターテイメント”である。例えば、プロレスにはベビーフェイス(良い者)とヒール(悪者)が存在する一種のヒーロー戦隊的要素があり、170cmの小柄なベビーフェイスが200㎝をゆうに超えるヒールを倒したりする。ボクシングなら何階級離れているんだという話だ。さらに驚くことには、1度土に埋められた死んだプロレスラーが生き返ることだってあるんだ。つまりプロレスには「そんなアホな」という言葉がつきものである。

しかし、小学3年生の僕にはその点における分別がなかった。170㎝のヒーローの勝利に熱狂し、死んだレスラーが生き返った時にはテレビの前で大口を開けて震えていた。テレビの中で起きる全てのことをリアルだと思い込んでいたのだ。その、世の中の裏側を知らない純粋無垢な思い込みが僕の中でケインを恐怖の存在へと確立させた。

ケインがベビーフェイスならそこまで僕の中で恐怖心は大きくならなかってだろう。しかし、ケインは泣く子も黙るヒールであり、さらに僕を恐怖に陥れるギミックが存在していた。そのギミックが...

”三角関係”である。

「アオハルかよ!!!」

なんて思うかもしれないが、そこには甘酸っぱさなど一切ない。ただただイカツイ男が、美男・美女カップルを壊しにかかるという、昼ドラにでもしたら視聴率は限りなくゼロに近く、苦情の電話が殺到するであろう内容だ。

十年以上前のことで詳しい中身は定かではないが、ケインはマット・ハーディー(以下マット)というイケメンレスラーとリタという女子レスラーをめぐって対立をした。リタにはマットの方がお似合いなのは誰が見ても明白であったし、なによりリタもマットが好きだった。しかし、恋をした”赤い処刑マシーン”は予想以上に純粋で、リタに一直線であった。木の陰からそっとリタの姿を見つづけ、少しでも話せるものなら顔を真っ赤にして照れてしまう。そんな一途で純粋な恋ならよかったが、ケインのリタへの愛情は利己心の塊であり、”俺が好きならリタも好き”、”リタに近づく男は全員処刑”という練馬のラッパーもびっくりのパンチラインを引っ提げてリタを求めていた。そうなるとケインの中ではマット=処刑対象となってしまった。もちろんマットも屈強なプロレスラーなので,ケインには対抗をしたが、体格に勝るケインは強い。ケインにつかまったリタをヒーローのごとく助けに来るのだが、返り討ちにあってしまい、リタは涙目になりながら再びケインに連れていかれてしまう。その情景は小学三年生の僕にとっては、リタが悪魔に連れ去られていくかのごとくであった。

そんなケインへの恐怖心が日に日に増していっている僕にさらなる恐怖が襲い掛かる。それはある夏の蒸し暑い夜に訪れた。僕は暗いマンションの中に迷い込んでいた。光が入り込まず、不気味な雰囲気が漂っていて、湿度も高く、僕は汗ばみとても居心地が良いと言える状況ではなかった。確信はなかったが、僕は何かに狙われていた。それは目には見えない、ただ何かが僕の動きをずっと目で追っているようであった。そして廊下の角を曲がるとその不安は現実のものになった。廊下の端からケインがこちらに向かってきている。そのスピードは早歩きほどで、僕は”走れば逃げ切れる”そう思った。しかし、どうしてか僕の足は思うように進まない。一歩がとてつもなく重たい。必死に思たい足を動かし、僕はある部屋へと逃げ込んだ。するとそこには僕の家族がいた。すごく安心した。これで僕も助かったと思っていたその時、「ピンポーン。」インターホンが鳴った。これは確実に開けてはいけない。なぜならそこにケインがいる。「ケインおるって!!」僕は懸命に叫んだ。しかし我が家の大黒柱は”なにいうてるねん”といった表情で玄関へと向かい扉を開けた。もちろんそこにはケインがいた。我が家の大黒柱はボコボコにやられた。純粋な小学生に絶望を与えるには、ゲームのセーブデータを消すor父親をボコボコニするが最も効果的であるように思う。それまで最強と思っていた父親が目の前でボコボコにされた僕は、もう僕を守ってくれる存在はいなくなった...これで僕もケインに処刑される...そんな絶望に襲われていた。次の瞬間僕は目が覚めた。

史上最悪の夢だった。よりによってそのころ僕が友達と毎日のように行っていた”マンションでの鬼ごっこ”と僕が最も恐れていた”ケイン”が夢の中で悪夢のコラボをしてしまっていたのだ。その日の鬼ごっこで僕が一人行動をしなかったのは言うまでもない。

こんな感じに僕はとにかくケインを恐れていた。このままずっと僕はケインんに恐れながら一生を過ごしていくんだと思っていたほどだった。

しかし、このケインへの恐怖はあっけなく終わりを迎える。

ケインがベビーフェイスに転身をしたのだった。まぁ正確にはケインよりもさらにおっかないスニッキーという大男がストーリー上ケインの敵として現れた。不思議なことに今まで悪者にしか見えなかったケインがスニッキーを目の前にするとヒーローにさえ見えてきたのだ。小学三年生の僕、ほんとに単純だ。スニッキーという共通の敵を見つけた僕とケインは仲間同然のようになっていた。なので正確には僕はケインの恐怖を克服していない。ケインという元恐怖をボコボコニする現恐怖スニッキー。つまり僕は新たな恐怖に出会っただけであった。

このように人は恐怖から完全に逃れられることはできないのかもしれない。恐怖が新たな恐怖を生む。この繰り返し。恐怖はロケット鉛筆だ。

哲学。

てな感じでこの文章を終わらせたいが。大人になった僕はもう一度あの頃のケインへの恐怖について考えてみた。すると一つの答えにたどり着いた。


僕はリタが好きだった。


小学三年生の僕は全身タトゥーの女子レスラーに恋をしていた。その時はそれが恋だとは気づいてなかったのかもしれない。なぜなら初恋もまともにしていなかった僕にはパンチが強すぎる相手だ。ふたつの意味で...

今ならわかる。できることならリタは僕が自分で守りたかったのだ。でも日本とアメリカ物理的な距離がある。そのため僕はマットにリタのことを任していたのだ。「できることならケインをボコボコにして俺がリタを守りたいけど、日本おるし、すぐにはそっちに行けへんからマットなんとかしてくれ。」

こんな感じだ。

だから僕はマットを信頼していた。マットなら守ってくれると思っていた。でもそのマットがあっけなくケインにボコボコにされていた。

お前負けたら誰がリタを守るねん!!!

そう、まさに”父親をボコボコニする”理論が当てはまる。信頼をしている人がやられると、とてつもない絶望と恐怖に苛まれということだ。

まぁ結局何が言いたいかというと、実際はケイン、リタ、マットの三角関係ではなく、四角関係であったのだ。ただし一点は果てしなく遠い、太平洋を越えたその先にある日本に位置するいびつな四角形だった。





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