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読了「人はなぜ物語を求めるのか」

以前、「人は物語を求める」という池上彰さんの講演の又聞き記事を書いた時、友人からこの本知ってる?と勧められた。行き帰りのバスでゆっくり読んでいたら1ヶ月経ってしまった。

「人はなぜ物語を求めるのか」(千野帽子ーちのぼうし著・筑摩書房)

最近、初めて会う人が多いので「質問」をする機会が多い。「どこ出身なんですか?」「なぜアメリカに来たんですか?」「なぜエンジニアになったのですか?」・・・
それはその人の人生という物語のパズルのピースをはめていく作業だ。ピースが一つでも欠けていると、そこを埋めたくなるから質問をする。
ー「アメリカに来た」という結果には納得しうる”理由”があるはずだ。
ー「〇〇という進路を選んだ」という結果には必ず”理由”があるはずだ。
それゆえに、物語を求めることは「人に興味を持つ」というポジティブな行為だと思っていた。

この本の意図は対極にある。私は物語の「喜」「楽」にしか目が向いていなかったが、物語を求めるが故に多くのことを決めつけ、不本意なことが起こるとその出来事の原因を他に求めて責めたり、批判したりする。

人間は生きていると、ストーリーを合成してしまいます。人間は物語を聞く・読む以上に、ストーリーを自分で不可避的に合成してしまう。(本書あとがきより)

自分の中にある「一般論」と状況が一致した時、人はストーリーにして「わかった気」になる。

「王が死んで、それから女王が死んだ」よりも
「王が死んで、悲しみのあまり女王が死んだ」の方が因果関係がはっきりして”わかった”と思う。(著者は「滑らかになる」という表現をしている)
そしてこの前提には「人は悲しみのあまり死ぬことがある」という一般論がある。
何か事件が起こった時、犯人の幼少期や家庭環境、仕事ぶりなどがニュースになるが、それらは事件を起こすに至った因果関係をはっきりさせたいという意思が働くからだ。色々なパーツを集めて、決めつけて、納得する。
「なんとなく人を殺した」は誰も納得しない。
さらに言えば、「家庭環境が悪いから人を殺すような子が育ったんだ」などと納得する。(何を以って家庭環境が悪いというかも「一般論」によって作られたものだ)

・人はストーリーや世界のなかで多くのことを決めつけて生きている
・自分の生きる指針(ライフストーリーメイキング)のせいで苦しむこともある(いずれも本書第5章より)

中学を卒業したら高校に、高校を卒業したら大学に、大学を卒業したらみんなと同じタイミングで就職活動をして、企業に入る。
今思えば怖いことなんだけれども、何も疑わなかったし、そういうものだと思っていた。(就職解禁の12月1日になった瞬間にマイナビに登録したのが懐かしい)

でも今回、「途中でやめるのは中途半端でいけないこと」「最後までやり遂げなければならない」という「一般論(と思っていたもの)」から手を話して飛び降りてみたら、なんだびっくり、5センチ下に地面があった。死ぬかと思ったけど死ななかったし、怪我すらしなかった。私が命綱だと思ってぶら下がっていた「一般論」は、ただの紐だった。

最近、私自身が直面している問いは「私は何がしたいのか、これからの人生どうしたらいいんだろう」
でもこれも、人生には壮大なストーリーがないといけないという思い込みなのかもしれない。「なんかカッコいいから」という理由でプログラミングを勉強し始めてみるとか(こういうサービスを作りたいから勉強する!ではなくて)、とりあえず、アメリカ行ってから考えます!とアメリカに来たりとか(〇〇を成し遂げるためにアメリカに行きます!ではなくて)
ベストセラーになるハッピーエンドの物語でなくてもいいんだなあ、と最近思っている。

もしよかったら読んでね。
「人はなぜ物語を求めるのか」(千野帽子ーちのぼうし著・筑摩書房)

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