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温泉宿 再考 〜ゆらぎ現れる癒しの正体〜

人心を掴んで離さない。温泉は世界最古のレジャーであると言っても過言ではないほど、その歴史は深遠である。古代ローマのカラカラ浴場しかり、わが国では縄文人も温泉に入っていたと伝えられ、温泉文化は地域、時代をこえて愛されつづけている。

温泉は、いや、温泉宿は一体どうやって、客人たちを癒すのか。お湯があればよいのか? 食事が豪華ならよいのか? いやいや、そんな通り一遍の評価じゃなくて、もっと深淵を覗いてみようじゃないか。少し経営的で、ミクロな視点で……本当に細かい話になるし、長くなるので、湯当たりしない程度に休み休み読んでいただけたらと思う。


仙仁温泉 岩の湯

切り立った山に挟まれた峠道、一見なにもない坂の途中に突如現れるのが、長野県須坂市にある「仙仁(せに)温泉 岩の湯」である。知る人ぞ知る名湯。平安時代末期に開湯し、かつては農作業のあと体を癒す地元の湯であったものが、今では山の木々に身を隠した大旅館である。

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エントランス

旅館の機微はまず、エントランス、進入路である。意外にも県内ナンバーの車が多くを占める砂利の駐車場を行くと、見えてくるのは小ぶりな街灯。暮れかかる山にぽっかりと灯る。目印はそれだけ。なんとわかりにくい入り口だろう、植栽が遮るために門も見えない。

いつか、滝を評価する言葉で「落ち口が見えないのがいい」と評した方がいたが、まさにその妙、秘すれば花。どんなに豪奢でも先が見えていてはわくわくしない。逆に、隠せば隠すほど趣を得る。どんな景色が待っているのだろう、と期待が膨らむ。

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門をくぐり、通路が続く。庭はきれいに整備されているようでいて、どこか無造作なところもあり、落ち葉も掃かれていながらも、潔癖すぎず自然だ。途中、東屋が見えてきた。これはどっしりとして、門よりよほど貫禄がある。丸い形の柔らかな光がともり、鮮やかなカボチャや菊の鉢植えがリズムをつくっている。手前の大木の下には様々な種類の苔が寄せ植えられている。

宿のテーマは「山里」。そのことは、東屋からさらに進んだ先で誰の目にも明らかになる。

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ようやく入り口らしい場所にきた。壁に掛けられているのは、温泉の銘、ただしそれは左端にちょこんと添えられているのみで、大部は詩のような言葉で占められている。温泉旅館においてこんなことがあるだろうか、店名を示す看板なのだ。それを、店名を主張せず、テーマをこそ伝える。いやあ粋である。

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門のなかにも小粋な演出がある。しょいこ、脱穀機、そして杵と臼。このような古民具が活躍した時代を知らない者ですら、郷愁をそそられる。そこに、山の草木が見事なまでに瑞々しく枝を伸ばし、影を映している。ただ明かりを摂るだけのライトではこのような影にはならないだろう、と予想する。

古びた農作業の民具と、対照的に生命を象徴している生け花。ここは、日々の生活のためにいつしか離れてしまった、心の故郷に帰る場所なのだ。

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門をすぎ、ふと振り返ると干し柿がならんでいる。家人が、毎年絶えることなく、手ずから作業しているその姿が、目に浮かぶ。

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川を渡る。澄んだ水の、嵩はそれほどないが、幅広のために川音が豪快に轟き、ここが境界であることを知らせる。明かりは足もとに控えめ程度。夜、通るところを想像してみる。ここは山中、川音大きく、風がふけば木々の葉擦れが湧きたつだろう。橋も明かりも豪奢でないからこそ、五感で山を感じられる。

エントランス部だけで、この距離感である。まるで、まさに山に分け入った感覚である。


歓待

素朴なお香の残り香を感じながら、ほの暗い玄関を通ると、いっきに温かな空間に出る。高い天井に太い梁、ロビーには大きなリース、各所に置かれたランプも大ぶりだが、調度の木や布の雰囲気といい草木を多く配置しているところといい、空間のデザインは柔らかくて人間的だ。大きく取られた窓からは、緑と紅葉の色彩がまばゆいばかり。そして、テーブルの上にあるプレートは、まさかドリンクメニューなどという色気のないものではない。自然にまつわる詩の切り抜きである。

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ロビーテーブルの一つ一つに小さな一輪挿し、織物も手づくりの温かみがあり、この一つの花に敷物を敷く、という丁寧さもありありと感じる。添えられた山の栗は、目で楽しむ秋である。ウェルカムドリンクは抹茶と甘酒のグラス。「ウェルカムドリンクは~」などと無粋なことは言わない。家に来た客人に、ちょっとお茶を出すような雰囲気で、和装のスタッフの方がさりげなく運んでくれる。

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ロビーの窓から見えるのは、水草もなくてきれいに澄んでいる、黒石をしきつめた鯉の池。癒しにおいて、池というのは最重要だと私は思う。水のゆらぎ、映る景色の艶やかな色、たゆたう魚が、旅程の車中の目まぐるしく変わる光景で逆立っていた神経を凪に誘う。そして池の奥には、自然な様子に造形された滝が落ちて、そこへ、なぜだろう? わずかに湯気が立つ。訊けば、湯を含む少し暖かい水なのだという。客人は、温泉の気配をここで初めてキャッチする。

さあ、居室へと進もう。


設え

山の斜面に建てられただけあって、館内はまさに迷路である。いろんな扉を出たり入ったりし、その度に澄んだ川音が湧きあがる。一度の案内では玄関に戻ることもできなくなりそうだ。11月に入ったばかりとはいえ、コートこそまだ出さなくとも外気はひんやり。

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「山に建てた宿なので、ご不便をおかけします」と申し訳なさそうに説明してくれるが、なんのその、この迷路がじつに有機的で良い。直角でない曲がり角を廻り、人工物と自然とのあわいを行ったり来たりすることがこんなにも楽しい。通路の先が読めない不確かさだけで、わずかに気分が高揚する。普段の生活環境が、高度に画一的であることの裏返しである。

そして通路のそこここに、明かりや鉢植えを配す工夫が徹底されている。階段端の飾り穴にすら照明が灯っている。よく、公共の庁舎やホールに噴水を備えていながら、予算削減で水を止めたり枯渇させておいたり、ひどいときには緑の藻や水錆が覆っているものがあるが、ああいうものは見るにつけ本当に心が痛む。文化的な景色にしようと試みたものが、逆に、見る者のこころを狭めてしまう代物に変貌する。

この明かりの灯された穴もまた、カラにしていたら同様に、殺伐としてしまうだろう。明かりを絶やさず、ちいさな鉢植えが生き生きと繁っている光景は、こころを安らがせる。こんな山奥に人がいて、ここで暮らしていて、植物に手をかけてくれてさえいるのだという、日常に感じる孤独を払拭するような安心感がある。そして、そのことを知り、明かりを灯しつづけることもまた、難しいことでもあるはずだ。

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通路の照明は過度に明るくなく、落ち着いた雰囲気が漂う。各所にふとおかれている椅子は、どれもデザインが様々で楽しげだ。また、通路の途中には書棚がそこかしこと設えられ、少し端がこすれたような、それでいて丁寧に扱われている古書が、綺麗に揃えて並べられている。書籍には、年代を経た小説や、自然や暮らしをテーマに書かれたもの、そして絵本が多くを占めている。歳を重ねてから、ここでページを繰りふと思い出す子供時代は、いかなる情景だろうか。

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大人になってから、本を読まない人がいるということを知り、私は驚いた。本はただの文字情報にあらず、その内部には空間が広がっており、これは読んだ者にしか感じることができない。その空間の広がりに触れると、脳はその分だけ新しい領域を増築する、というように私は普段感じている。つまり、旅館に本を置くということは、館の大きさや形の限界を超えて、体験する者に空間を提供することでもある。

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廊下の脇、窓の外を覗いてみてほしい。ちいさな湧き水が下へと流れくだっている。この外は山の傾斜の岩と多少の植物、そして石の法面があるだけの景色であるが、ここに湧水を配置することでその景色のつまらなさを解消している。

また廊下突きあたりの障子窓は、一見、向こうに客室がありそうな雰囲気だが、そこに部屋はない。明かりを見せるためだけの枠である。ここも、壁だけではどんなに寂しいかと思う。静寂でありながら、人の気配を演出し、空素感をさりげなく解消している。もちろん障子がなければないで、ただの壁であり、そこには楽しさも寂しさも、なんの感情もありはしない。ところがこの明かりを配置すると途端に、そこに温かみや安心感が現れる。

そして、角には消火器が配備されているのだが、背が高く存在感のある鉢植えが手前に置いてあり、消火器の生活感はまったく滲まない。

やっと部屋へ辿りついた。ここまでで山越えの感である(解説もしかり)。


居室

写真が説明力不足で申し訳ないが、このフローリング部は要するに、一般的な旅館によくある、和室の奥の応接セットを置くスペースである。大人数で歓談するに十分な広さ。この手前にさらに、広々とした畳敷きの空間がある。

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外の景色は、山深く、人工物はなにも見えない。紅葉の色づきはまさにベストシーズンである。建物全体に言えることだが、雨の日にも屋外を楽しめるよう、透明の庇がついており、自然光の採取量が多い。

大小さまざまな生け花が、館内、室内いたるところにかわいい花弁を開いている。これがすごい。一部屋に5~6カ所、館全体を考えれば相当数だが、どれも種類がそれぞれで、旺盛に水を吸い上げて元気である。花は、食べるものでもなければ、スリッパやドライヤーのように何かの行動に供するものでもない。なくても困らないし、床の間にひと瓶でもあれば十分ちゃんとした宿だと感じるが、ここの宿はそれで留まらない。玄関、洗面、トイレ……ただ旅人の目を楽しませ、こころを和ませるためだけの存在だからこそ、ホスト側の「宿のどこに居るときも、和んでほしい」という気持ちが伝わってくる。癒そうとしてくれている、だからこそ、旅人は癒されるのである。

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館内は、それぞれ場に合ったBGMが流れている。クラシックなストリングス、ピアノ、和楽の調べ。到着したときから部屋で再生されているのは、ゆったりと幻想的な環境音楽である。同タイプのCDは何種類か用意されており、飽きがこない。

文机には宿のコンセプトになっている本が、どの部屋にも同じく用意されている。温泉の風景を切りとったポストカードや、便箋と万年筆の用意があり、ふだん手紙など書きもしないのに書きたくなってくる素敵な調度たちだ。

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フローリングの延長のような幅広のテラスに出ると、多少遠のいた川音がすがすがしい。透かしをあしらった小さなランプが灯り、藁の円座も風情がある。テラスの床から手すりから、全体が木材で包まれており、「建築物感」「無機質感」を徹底的に排除した作りになっている。

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温泉宿といえば、観光地を巡って疲れ、やっと到着した部屋に用意されているお茶菓子セットも案外楽しみのひとつ。あまり見かけたことがないマタタビせんべいと練り菓子は、甘すぎず、入浴前に小腹を満たすに丁度よい。また、嬉しいことに手造りの漬物が冷蔵庫で冷えている。今回は秋口ということで野沢菜シーズンには早く、野沢菜のたまり漬けだったが、お茶受けにはちょうど良い塩加減だ。

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歩きつかれた足をいくらか回復したら、浴衣に着替えてさっそく温泉に向かおう。

これまた湯殿までの道すがらの扉である。扉と、扉サイドの壁ともに磨きぬかれたガラスが美しい。が、注目したいのはドアに渡された2本の竹である。なければどうだろう、一気に現代風の木造家屋感がでてしまい、山にそぐわないようになるのではないかと私は思う。このちょっとした竹が、建物と山との一体感を推進している。全面ガラスなので衝突防止の役割もはたしていそうだ。

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仙仁温泉の名物といえば、少し調べれば出てくるのだが、なんといっても「洞窟風呂」である。広大な地下空間のような場所に、川のように温泉が流れており、足元は砂利敷き、湯あみ着を着て、深くなったり浅くなったりする洞窟温泉内を歩きまわることができる。それはまさに洞窟探検のありよう。温度も低めで、長時間いてものぼせにくく、存分にデトックスできる。

他には中々ない面白い温泉なので、ぜひ洞窟を訪い、その目で確かめていただきたい。ここではそれに代わり、館内にいくつかある小規模の家族風呂を紹介しよう。

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ひとつめの浴場は、美しい楕円の浴槽がフラットな地面から立ち上がった形の内湯、そして解放感ひろがる露天風呂のセットである。内湯はそれほど高温でなく、外気で冷えた体でもすぐ馴染み、さっと温まるのに丁度よい。

入浴の仕方についても、「ぬる湯」というコンセプトを定めており、案内がある。

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内湯に対して、外湯はさらに温度が低めだ。外気に触れながら入って、寒さを感じないぎりぎりの線。内湯はつかっていると次第に熱くなってくるが、外湯は肩まで浸かり、汗を流しつつも長時間いられる、本当にベストの温度。そして露天空間の設計は、空へは抜けていても周囲はぐるりと囲われており、そこここに気取らない植物や石の造形がしてあって、なんとなく包まれているような安心感がある。山の風を感じながら、同行者と語らったり、一人思索に耽ったり、あるいは何もしないで頭をからっぽにして過ごす時間は、まさに非日常の体験、至福である。

低温度での入浴には2つの大きなメリットが考えられる。ひとつは、入浴事故の積極的抑止ができる。一説によれば、ヒートショックによる死者数は交通事故のそれを上回る数だといい、旅館であればなおさら飲酒後の入浴も多くなるため、この事故防止は実際、温泉旅館にとって大きな課題なのである。

ふたつには、ここの温泉は源泉温度が低く、「加温」をしている。現実的で無粋な話で申し訳ないが、温度が低ければもちろん燃料代も抑えることができる。

しかしながら、そのような味もそっけもない勘繰りはさておいて、体に負担をかけない状態で長く温まれば、新陳代謝が活発になったり、泉質がよければそれこそ美肌効果も絶大であろう。そのような、入浴者が真に欲している温泉の効果を最大限に生かす用意までしてくれているのだから、嬉しい限りである。

もうひとつ、別の家族風呂に行ってみよう。こちらは、入り口から地下に降るような錯覚を思わす、下りの構造になっていた。堅牢な石造りの床と内壁に、フロアを掘り込んで古木の木枠で囲んだ内湯、そして山肌にぽっかり作ったような露天のセットだ。

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この風呂の注目すべき点のひとつは、脱衣室にある。木造を基調とし、材木の曲がりまでをも活かす、人間的な造りは館内どこも共通なのだが、ここの脱衣室の梁には模様が彫りこまれてある。

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梁の角はちょうど里芋の面取りを施すようにして削がれ、これを繰り返して凹凸模様を作っている。精緻な彫刻ではないので一見するとふつうの梁と見てしまいそうになるが、このわずかな彫りこみが空間全体を画一なイメージから離脱させ、より有機的で親身なものにしている。この細工は脱衣棚など随所に施してあり、空間イメージが部屋丸ごと統一されていた。

家族風呂は他にもあり、どの風呂も好きな時間に入浴できる。この宿の構造の常で、ひとつとして同じデザインはなく、それぞれのデザインのよさもさることながら、まるで別の旅館に来たかのような新規性が味わえる。また、脱衣棚は数多く用意されており、4人程度のグループなら余裕をもって楽しめる広さだ。

十二分に温まり、心身ともに満たされたところで、浴衣のうえにこの季節らしいちゃんちゃんこを羽織って、涼みに外へ出る。

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湯あがり、という概念についても、この旅館では深堀りし、演出へと落とし込んでいる。迷路のような館内のいたるところに、庭や山の景色へむけて配置された椅子があり、なにもせずのんびりできるようになっている。その椅子も、一脚のものに始まり、ソファ、ベンチ、ハンモック、ロッキングチェア……とタイプが多岐にわたり、飽きないし、それらのどれにも座りたくなってしまう。硬い椅子には茣蓙や手編みの座布団がさりげなく置いてあり、それも清潔感がありながらも年季のはいった様子が微笑ましい。まさしく、しばらく足が遠のいていた山里の実家、といった感である。

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火照った体へのチャージもしっかり準備されている。飲用水のほか、こちらにあるのは氷で冷えた果物を一口大に切ったものだ。おいしい夕食を前に我慢しなければ、と思いながらひとつ、ふたつ。どれも新鮮で甘いし、なにより他のお客の使用感があまり感じられなかった。今しがた置かれたかのようだ。スタッフの方とすれ違うことなどめったにないのだが、どういう仕組みで館内を整えているのだろうか。


食事

さて、待ちに待った夕食である。温泉旅館での夕食といえば、3つの指に数えられる一大イベントのひとつだろう。夕食の写真は上げないでおこうと思う。それは、私がこの旅館での夕食を本当にすばらしいと思っており、できればこれを読んで興味をもたれた方にはぜひ自分の目と舌とで体験してほしいと思っている。以下には、私が温泉旅館に求める食事のポイントを記す。

第一に、揚げ物がない、または最小限であること。

第二に、味付けが薄めでだしが効いていること。

第三に、地元の食材を多く使用していること。

食の好みの話なので多分に個人的な意見を含むが、第一の「揚げ物がない」というのは、揚げればなんでも美味しくなるから、という理由である。つまり板前さんの力量は見ることができず、逆に、隠せるということでもある。

第二の「出汁」について。ただの「おいしい食事」であれば、世の中の主婦および主夫、もとい料理好きな方ならだれしも作っている。美味しさというのは、ほぼ塩加減で決まる。だからこそ客は、普段の食事にはない美味しさや驚きを欲しているし、それがあったときに感動する。翻って宿(またはレストラン)側からみれば、ごまんとある同業者の中から選ばれるためには、「非日常的によかった」というレベルまで到達する必要がある。そのためには塩加減によるごり押しは控えめにして、出汁がカギを握るだろう、とみている。

第三の「地元食材」だが、これが宿やレストランにとっては非常に悩ましい存在。むしろそこに悩んで工夫をしている宿だったら、私は行きたいと思う。家庭での日々の食事を見ればわかるように、産地などに拘らずふつうに暮らしていれば、食卓の大部分を居住地域外の産品が占めている。つまり、日本人の食卓は地産地消でないことのほうが当たり前なのだ。

一方で、旅行にいけば「地の物を食べたい」。これは旅行者の普遍的な欲求だ。自分の手でもいだリンゴ、浜の地引網から水揚げされた魚、そういったものは確かに感動レベルの地の物だ。だがどうだろう、土産物店に置いているものの多くは「デザインが地物」なのであって、中身はといえば、原材料の産地の多くはいざ知れず、ともすれば中国産とくる。店側は売れればよい、消費者側は配れればよい。この文化には少し閉口している。

宿の料理は経営でもあるから、原材料費にも当然目を配らなくてはならない。一方で、豪華だからという理由で本マグロや有名和牛など、まったく地域に縁もゆかりもない食材を安易に取り入れても、ゲスト側は「なぜこの地域でこの食材??」と訝ってしまう。旅人にとって重要なのは、この旅をしたことの意義、この旅の他では得られない価値なのであり、都心のちょっといいレストランに行けば食べられるものなど出されても感動の範囲外なのである。

そういった条件の中で、いかにして地元の食材を摂り入れるか。そのうえ、ある程度の華やかさを保ち、安易な食材を使用せず、ていねいに、お客の満足のいく演出が提供できるか。これこそが職人としての料理人の腕の見せ所である。

この宿の食事は、この3つのポイントをすべてクリアしている。見事なまでに野菜を中心にしつつ、胃も心も満足のいく食事となっているので、ぜひ体験してみてほしい。

夕食は載せないが、朝食はちらりと載せておく。

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宿のサービスの中心に、純粋に「温泉」を据えることにより、食事や居室など他のサービスの方向性も自然と定まっている。「温泉」というファクターは、「体に良い」を重要なファクターとみる客層との親和性が高い。それでこそのこの野菜たっぷりの食事である。単に豪華でおしゃれであろうとするならば、彩りのよいサラダにエッグベネディクトのパン食もさまにはなるが、こちらでのメインは川魚の塩焼き。コンセプトはあくまで和に傾倒している。

和を取っても洋をとっても、どちらにも良い点・難点がある。それで多くの事業者は客ごとに違う好みを全面的に満たして全面的な人気を得ようと、和も洋も選べるメニューにしがちだが、同等の労力しか用意できないのなら、結局は一つ一つのサービスの質を落とさずにはおれない。ここは山里の懐かしき家、エッグベネディクトなどという横文字の朝食が出ようはずもない。宿のテーマをはっきりさせているからこその、提供するサービスのブレなさ・レベルの恒常性も、経営にとっては重要なことと思われる。


帰路につく

後ろ髪を引かれながらチェックアウトの列に並ぶが、なかなか前に進まない。見ると、カウンターに立つ客はみな、カレンダーを睨み次回の宿泊の予約をしているのである。

なんとも見上げた盛況ぶりだ。緊急事態宣言が解除され、他県への移動が出はじめた昨今の情勢にもかかわらず県内車が多かった理由、掴めた気がする。ここへは旅行ではなく滞在そのものを目的に人が来る。「温泉宿を体験」するために。それだけの「もてなし」が、ここにはある。

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そして旅人は境界をこえて、また現実へと帰るのである。長くて細かくて、読みにくい文章、読み飛ばし結構。私がこちらの宿のサービスにどれだけ感銘をうけたか、それが伝われば十分である。


適正な価格とは

さて、料金の話をしよう。部屋タイプと宿泊人数によって変わるが、ランクを上げるまでもなく一泊3万円ほど。高給取りでない私にとっては貯金を削る額といっていい。しかしながら、まったく懐が痛んだ気がしない理由は、2つある。

第一に、それに見合うだけのサービスを受けられたと感じること。第二の理由は、旅程が短いので旅費がそれほどかからない、という点だ。家のある地域から、峠をこえた麓、といった距離感なので、ガソリン代程度。近隣には長野市や小布施町といった観光地があるからそれほど遠出する必要もない。むしろ、温泉滞在に時間を使いたいので観光は最小限にとどめる。つまり、新幹線や飛行機での各種観光地をめぐる旅と比較すれば、申し訳ないほど安く済んでいる。

よく「東京の人は東京タワーに登らない」という話をきく。旅行といえばつい、県外、国外と遠くを見がちだが、近隣の宿など調べる機会もないのが本当のところだ。遠くの、まったく違う文化に触れることにも存分に価値がある。同時に、知っていそうで知らない隣人の文化も、知ろうとすれば、新たな発見があるかもしれない。


旅館のサービスとは

部屋ひとつ、料理ひとつ、スタッフの方の所作・言動ひとつとって、宿に幻滅することもある。少しばかりならやり過ごせても、そういう事が重なれば結局、「ここにはもう二度と来ない」といった結論が出ることもある。その繰り返しがあって、宿全体の収益の現象が生じる。

反対に、ちょっとした花、ちょっとした心遣いがあって、それが積み重なって「また来たい」に転じる。宿の本来の機能は「観光をするための中継地」であって「滞在地」ではない。主役は宿ではなく、観光である。それが、またこの地域に用があるときは「定宿としたい」とくれば喜ばしいし、さらに「この宿に来るために、また旅をしたい」となれば、それは本当に温泉宿冥利というものである。

そういう点では、この仙仁温泉岩の湯は、本当に優れた温泉宿だと私は思う。数多くのポイントで「ここはいいな」「これは雰囲気がいいな」と加点加点の応酬である。「優れた温泉宿」とはいったいどういうものだろうか。客の立場になれば、ここはよかったな、ここはちょっとな、と多くの人が自然と、何らかの評価をするだろう。つまりは簡単なことで、客の目線に立てるかどうか、がサービスの品質を決める。

そんな簡単なことなのだが、できていない宿も多いのは、なぜか。今回の旅を通じてひとつのアイデアが見つかった。「ここはよかったな」を言い換えてみるとつまり「これは、私のためを思ってしてくれているな」と、ほっと感じることだったのである。その逆は、「これは、私のことを全然考えてくれていない」、つまり、旅館側が良いと思っている(あるいは自分たちでも良くないと思っている)サービスを、一方的に客へ押し付けている状態である。

良いサービス、悪いサービスでは、人によって意見がだいぶ変わり、相対的だ。それにたいして、「私のことを思ってしてくれている」、つまり、ただ単に清潔ではなく、美味しいではなく、美しいではなく、「このサービスをしたら、お客様は安らいでくれるか」「楽しんでくれるか」「和んでくれるか」といった基準をもつことで、より絶対的基準に近づくことができるのではないだろうか。


終わりに

ここにきてふと、「サービス」という言葉が和訳されないまま広範に使われていることに思い至る。時流では「おもてなし」と訳しそうになるが、「おもてなしを英語で言うと?」の問いにサービスと答えると、なんだかすっきりしない。サービスと言うのは、なんだか機械的な気がする。反面、サービスの語源はserve、つまり「仕える」ことを意味する。「仕える」とは、君主や将軍など自分の上に立つ人のために働くことであり、まさに「仕事」の「仕」でもある。

それでは、今回体験したことは、サービスともてなし、どちらだったのか。スタッフの方々にとっては、行動の一つ一つがまちがいなく仕事である。しかし私は果たして、スタッフの方々に仕えていただいたのか。否。私はサービスを受けたのではない。「サービス」と「もてなし」は、やはりくっきりと峻別される概念のようだ。豪華でも、質素でも、それは構わない。「もてなし」の有無が、旅館の生命線なのではないだろうか。

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