バミューダトライアングル

バミューダトライアングルに トライ!

ふたりの人間が、意見を一致させられないとき。

課題がより複雑になるのは、どちらもが、善良であり、仏でない、という場合だ。

善良であるからこそ、利己的にならず、相手のことを考える。いくら相手のことを考えて行動しても、それが結果、相手の満足をさそうことにならないことだってある。そんなとき、「わたしがあんなに心を尽くしてあげたのに、わかってくれない」と不満が募る。

仏でないからこそ、許容することに限界がある。相手の欠陥を欠陥であるとは認めながら、それをフォローすることが素直にできない。「苦手なのはわかる。でも、大人なんだから、社会人なんだから」そんな理由をつけて、できない相手を暗に非難する。状況がわるいのは、相手の欠陥のせいであり、自分にはなんの問題もない、と考える。

より困難なことに、

たいていの人は、善良であるし、仏ではない。

意見を一致させたい。

意見が一致すれば、たとえ困難な仕事でも、膨大な作業でも、性格があわない相手とでも、やり遂げられる気がする。

ふたりの人間だから、どちらかが正なら、反対は誤。善なら、悪。そのふたりの持つ、ふたつの意見は、シーソーのよう。どちらもが上にいることも、下にいることもできない。

これが、二点というものの限界だ。広い世界で、たったふたつの点が、なにを主張できる? どんな正統性を証明できる? つぎの瞬間には、優劣が逆転している。

だから、三点目が、必要だ。

意見を一致させることは、ものすごい威力を持っている。人間が協力してなにかを成せば、たとえば三人なら、その成果は一人のときの三倍、とは限らない。そこが協力のすごいところだ。

協力の前提として、意見の一致がいる。

「どちらが正しいか」というもので、人は物事を判断しているようでいて、ほんとうは、正しさなど存在しない。衝突する意見は、ごまんとある。その片方がもし、圧倒的な正当性を持っていたら、衝突するわけがない。正しい、正しくない、を見きわめようと目をこらしていても、大抵の問題は、どちらの結論を実行したって同じなのだ。

絶対的な正しさが、なかなかない。だから、ふたりのときは、相反する意見を取ってしまったとき、一致させにくくなる。

正しさはない、誤りもない。けれど、意見の一致はほしい。

そういうときの特効薬が、3という数字。3点目を用意する。

空間上に2点をとり、直線でむすぶ。2点はむすばれる。けれど、どちらが上か、下か、ということは判断できない。むしろ、どちらか1点の側から見れば、こちらが絶対的で、あちらが相対的だ。

空間上に3点をとり、直線でむすぶ。3点はむすばれ、さらに、1点につき2つのつながりが生まれる。とある1点から見れば、どちらの点が近いか、遠いか、その判断は絶対的で、客観的な正当性もある。

図形の問題でよく「3角形だけが、辺の長さが決定されれば、図形そのものが決定される」という話をきいたけれど、人もまさに、それではないか。

正しさなど、どんな人にも属してはいない。ただ、人が集まると、人と人をつないで図形がうまれる。その図形をどんな形にしたいかで、自分の立ち位置をきめればいいのだ。ただし、それをするときは3人以上で。

正しさはない。相手にも、自分にも。もっと自由に動いていい。


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