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ひとり

仕事のことだから具体的に記事にすることはできないのだけれど、その背景について考察することだけは、どうしてもしなくてはいけなかった。

彼女は電話口で泣いていた。

それまでの話の流れを、私はだれにも話すことができない。業務上の報告として上司に話すことはできるかもしれないが、業務には直接関係ないと言われるだろうし、実際に業務には直接関係ないので、言わなかった。

どうして彼女が泣いたのか、理由はわからない。叱責していたのではないし、悩みをきいていたわけでもない。淡々とした報告をされ、私は相槌をうち言葉をかけただけだった。

泣いていたのかどうかも、今になってみるとわからない。

電話口での声の変化はつかみにくくて、面とむかって話す相手が泣きだすのを見るのとは、わけがちがう。それでも、7割くらいは、あれは平常時の声ではなかったのではないかと疑念をいだいている。

その後、彼女の生活が変わったであろう事実を、見つけてしまった。泣いていたのかは、わからない。けれど彼女は今、きっと人生の何度目かの曲がり角にいるんだと思った。

人の人生だ、想像することしかできない。職場において仕事に関係のない情報は、どんなことだって秘密にする権利がある。他人の人生にやたらと踏みこまないというマナーだってある。

ひとりの部屋で、ひとりでいる時には、自分がこのちいさな世界のすべての采配を振るっていて、すべての責任と成果物とを一身に堪能することができる。反面、このちいさな世界など、ほかの誰も、必要とする人はいないのだ、私も含めて、という落ちこみが、本当に時々だけど押しよせる。

人の人生は、想像することしかできない。外見から判断できることは、ひとつもない。すべてをわかっているのはその人一人だ。どんなに多くの人に囲まれていても、自分がなにを見、聞き、話したか、感じたか、なにを考えたか。なにを思ったか。知っているのは自分一人だ。そして、すべての人が同じ状態にある。

彼女は今、どちらにいるのだろう。ひとりの自由か、ひとりの孤独か。

それでも顔くらいは覗いてこようと、彼女の職場へ仕事あがりに足を向けた。夕闇がもうすぐ夜に変わるくらいの時間に到着した、彼女の働いているはずの建物は真っ暗で、ドアは閉まっていた。先般の新型コロナの影響で、シフトが変わっていた。

ひとりなんだなあ、私もひとりだ。そして、今この瞬間を呼吸するあいだも、年を着々と重ねている。私はなにを積み重ねているか。このちいさな手で一体なにを、行えているというのだろう。

電灯のまわりだけぼんやりと真っ白の雲のようなものが群れていて、雪? でも、こんなに暖かいのに、と思っていたら満開の桜だった。闇にまぎれて日中のような盛大さはないけれど、光のあたって見えるところと、闇に溶けていくあいまのところの、濃淡があって美しい。太陽のしたで見る、いつだって物足りない白いピンクより、ずっと深くて濃くて艶のある色をしている。

咲いている。安心する。

窓をあけて、車を走らせる。遠くの山あいに夜光虫のような夜景が、心ばかりに散っていて、ほとんどは白で、青や黄色もあった。風にはもう、冬のにおいはしなかった。空は曇っていて、風がつよめに吹く夜だった。


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