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雲を掴むような話 でも確実に存在する

しあわせな気分は、ふとした瞬間にやってくる。そしてそれは大抵、コーヒーかビールを飲みながら、なにか食べているときだ。

人生の目的のなにをも立てることができなくて、目標のなにをも達成することがなく、他人のしあわせの外見を羨んでばかりいる人間にとって、そのふとしたしあわせは意外に大きな影響力をもつ。

ただ飲食しているだけで、こんなにしあわせになるものなのか、なっていいのか。これはなにかの間違いじゃないのか。いや、あきらかに間違いだろう。これは単に、なんらかの脳内物質の反応にすぎない。カフェインやらプリン体やらが神経に影響して(プリン体が脳内に入れるのかしらないが)、いい感じの部位がいい具合に影響された結果の、このフワフワした感覚なのだ。

そう納得して、これが勘違いによるしあわせなのだと結論づけ、自らしあわせから遠ざかろうとする。これは、本物ではない、と。

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子どもの頃は、容易にしあわせを手にすることができた。炎天下の体育のあとで水道からあふれる温い水をがぶ飲みするだけですごく満足した。空腹で食べるものはすべてがご馳走だし、虹が出れば驚きと感動が毎回あった。

確かにね、愚痴が多いと思う。話題にのぼることはしょっちゅうだ。昔は愚痴を言う必要がなかったんだ。不満がなかったんだから。いや、不満がなかったということはないな。ではどこが変わったっていうんだろう?

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そのときに来るしあわせの感覚は、脳の反応にすぎないので、どれがどうなったからしあわせだったと説明することは難しい。本当はカフェインなんか関係なくて、飲んでいるときに偶然、いつもその脳内反応がおこるだけかもしれない。

もう一つ、それがおこる時の共通点があるとすれば、それは、だれか特定の人間のことを考えている時に生じる。一人とは限らない。その人間と自分との関係を考えたり、とある二人の人間関係の円満さにほほえましく感じていたりするときだ。

人間じゃない。人間と人間のあいだにある何か。目に見えないものだ。

だから、一人でものを食べているときにも、それは生じる。孤独や孤食が不幸だなんて、決めつけるべきじゃない。そうあって不幸だという人ももちろんいる。けれど、あまりに多くの人がそれを言うので、常識みたいになっていて、それは決して常識ではないということを覆い隠している。

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常識が見えてしまったから。

私は無知なりにいろんなことを知っている。結婚すればしあわせだ、しなければ不幸だ。友達がいないのは不幸だ。不細工なのは不幸だ。大人になって常識も知らないことほどイタいことはない。かわいそうだ。

私は常識を振りかざす人間を信用しない。よほどちいさなコミュニティの中で生きてきたのだと思う。それを常識とみる大多数のなかにいるから、自分の常識を信じていられるのだ。

しかし、コミュニティは確固としてそこにあり、人々はその中でいまも暮らしている。常識から逃れることは難しい。地域にかこまれて暮らすなかで、周囲の人々の常識に照らし、自分の常識を補正し、おなじ形のしあわせを掴みにいく。掴んで、満足する。

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自分だけのしあわせを、その姿のまま持ちつづけるのは難しい。コミュニティのなかに生きている場合は、特にそうだ。みなが同じような形態でしあわせを模索しているときに、「私だけはこれで」と自分のしあわせを誇示しても、賛同されることがないからだ。それは、どこからも反響が返ってこない真っ暗の洞窟にいるようなものだ。自分の存在が信用できなくなる。

そして、逆にしあわせでない部分ははっきりと見えて、同じような境遇の不幸もの同士で集まり傷をなめあい、会えば愚痴を言うようになる。

私は言わないけどね。私には、私のしあわせがもうある。

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もうずっと昔からそこにあった。先日、クローゼットの大掃除をした。古い本や漫画がたくさん出てきて、大多数は売ったけれど、3箱目になって、最後に一度と思ってページを捲ると、すぐに理解できた。これは、売るべき本ではないと。

私は未成年だったころすでに、このしあわせを見つけていたのだ。その人間関係を。散々アホなことをして(あるいは何もしないで)、無計画で行き当たりばったりな人生を歩んできて、今もまだその生き方を続けようとしている。

まあ、このままでいいのではないかと思う。


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