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フローな喜び

働く、ってどういうことなんだろう?
単純な話「遊んで暮らせたらな〜」というところを理想のゴールとすると、ファイヤーみたいな話だけど、労働しないで趣味とかエンターテイメントをやり続けることが幸せ、という結論になる。子供の頃なんかまさにこの考えに染まっていて、彼らは嫌な勉強の延長線上に嫌な仕事も会社もあると考えがちだから、要するに「ゲームしたり漫画読んだり寝たりしながら一生生きていけないかなぁ」と考えている。そう妄想しつつ、それが叶わない夢であることも悟って嫌々勉強する。

けど、遊んで暮らすことって本当に楽しいかな。
労力を使うことそれ自体が喜びを生むこともある。軽井沢のアウトレットでアルバイトをしていた時は、お盆休みの長蛇のレジ列を全て捌ききった日の爽快感たるや、何にも勝る幸福だった。作業自体が苦痛じゃない(レジのキーを押すポチッという感じは快感だし)に加えて、理解し切っている動作を繰り返すこと、この行動でフロー状態になることに幸せを感じることって、確かにある。無心で登山する時のような。
この時にだって、エネルギーは消費しているに違いない。人間は食べ物からエネルギーを得て、それを燃焼させて体が動く。エネルギーを使わなければ、それだけ食べ物もいらなくて、出費も抑えられるので、省エネ。なんとなく「善」みたいな顔をする。けど「それ楽しいか?」って話なのよ。労力を節約して細く長く生きることって、そういう生き方が好きな人ももちろんいるけど、私は、自分がそういう生き方をすることには賛同できない。

息は、大きく吐いて、大きく吸う。この体にも脳にも爽快な行動が、労力にも言えて、労力ということはつまり、その労働の恩恵を受ける人がいて、ものづくりであれサービスであれ、それだけ幸せになる人が増えるってこと。こんな自分も他人も上手くいく話、乗らない手はない。と思うんだけど。

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いやいや、仕事なら嫌なんじゃない?と思われるかかもしれない。
そこがなあ! 仕事の線引きは人それぞれ。「仕事=嫌なもの」嫌であって当然、それを我慢するのが大人、みたいなのはやっぱりどこか勉強の延長線上にあるように思う。まあ勉強は、嫌いな科目は手をつけないなんてなかなか勇気が必要でできないことだ。全教科まんべんなく得意ってことはあまりなくて、学校が好きな場合でもどこかで我慢を強いられてきた経験、誰しもある。

片づけの魔法のこんまりさんは言う。
「(片づけに取り掛かるために)まず、自分にとって理想の暮らしはどういうものなのか、細部まで妄想してみる。それから更に、なぜそんな暮らしがしたいのか、それはなぜなのか、3回から5回くらい掘り下げてみてほしい」
ちゃんと考え抜いている人は、木の根が深いなあ、と思う。今手に触れているこの行動の理由はこれ、それを実現したい理由はこれ、さらにその先の目的は…と掘り下げて考えていくと、行き着くところは「生きる目的」だ。嫌いな科目を勉強する理由の掘り下げはできなくても、生きることについて自問自答することは絶対必要。生きる目的なんて大それて見えるけど、話はもっと単純で、

主人公のサックスプレイヤー宮本大が世界一のジャズプレイヤーを目指す漫画『BLUE GIANT EXPLORER』で大は、なぜ世界一になりたいのかという質問に、全くわからない、と答える。その質問をしたシェリルは言う。「理由がないってことは、あなたは本気ってこと」。

結局これ。どんなに遠回りしても、どんなに諦めようとしても、どんなに自分に言い聞かせようとも、結局ここへ戻ってきてしまう。好きだから。理由もなく好きだから。いいと思うから。ワクワクするから。愉快だから。
じゃあなぜ働くの? 自分がわけもなく好きなものをするために、でもそれにはお金がいるから、仕事の内容はともかくとしてお金を稼ぎ、趣味に投じれば、それで幸せーー違う、違うんだよねえ。何もさ、ミュージシャンとか画家とか俳優になりたいって話じゃないんだよ。労働したいし、好きな行動をしていたいし、それを人々の役に立てたい。

「つまり、何が言いたいの? 君は、何がしたいの」

これを読んでくれて、ここまで読んできて下さった方は、そう思うことだろうと思う。私は、そういう世界になってほしいと思っている。多くの人が、自分のやりたい行動を以てして、それをものづくりやサービスに転換し、それが労働的な価値を生み、他の誰かを助ける。特技や能力のある人が、その力を持て余すことなく発揮でき、発揮できたことを楽しめる世界。その人が、自分の能力を最大限、元気に発揮して、それが他の人を助ける。そういう世界を作りたい、と私は考えている。
そこで「世の中そう甘くないんだよ。我慢することが一番金になるし、好きなことをするのが一番金にならないんだよ」という意見が出てくることはよくわかっている。けど、結局周りまわって絶対に戻ってくる。百周しても結果は同じ。いつか自分も大人ぶった大人の世界に飲み込まれて、納得して自分の興味もない労働に勤しむだろう、ってずっと思ってきたけど、そうじゃなかった。世界をそういうものだと信じている人々が寄り集まって、そういう世界を作っている。井の中の蛙は、自分が井戸の中にいることに気づかない。
そうじゃない世界を作ろうとする人が集まれば、世界はそうじゃない世界へと変化していく。
井戸の外がありそうだ、と気づいたら、いったん一歩出てみる。ノートを綴ったダーウィンのように、そこから、川や湖や海が一つずつ見えてくる。そうしない場合は、広大で明るい海の存在を知らずに暗い井戸の中で人生が終わる。

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社会学に「集合行為問題」というのがあって、駅前の自転車問題みたいに、便利だからという理由で無数の人が同じ行動を行うと、自転車がずらりと並んで通行困難になったり、点字ブロックが隠されてしまったりする、という社会現象がある。
仕事は仕事、趣味は趣味、として生きるのが一番安泰だし、一定程度たのしめもする。だからそれを選択する人が多くなる。すると、たいした魂もこもらないものづくりやサービスが世の中に溢れて、結局、自分がサービスを受ける側になったときに不都合が生じる。労働にだって集合行為問題はあるのだと思う。
さらに、そういう悲観的な世の中をもっと楽しいものに、誰もが楽しく働けるものに変えていこう、とする人の総人数も減って、保守的な空気がどんどん加速する。世の中は(私から見れば)暗くなっていくし、一番に割を食うのは経済的、文化的、社会的資本がもともと少ない人々だ。

だからって、個々人が安全な選択肢を取ることを非難することはできないんだけど。そこは動かせないんだけど。
私だって不安だ。安定な人生なんてないし、比較できる人生もない。それはわかっているけど、自分が安全地帯にいる間に、世界が愉快なものになってくれたらいいのに、って思うけど、誰かがやらないと労働がつまらないもののまま世界が動いていくのだったら。

結局私はいつだって、愉快に生きたいだけなのだ。私が楽しく生きるために、みんなが楽しく生きている世界にしたいがために、霧の中を手探りで、労働について一旦言語化した次第。


参考文献
近藤麻理恵『人生がときめく片づけの魔法』
石塚真一『BLUE GIANT EXPLORER 2』

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