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意識と呼吸と感覚はどこから来るのか?


第一章  意識と感覚の世界へ




私の疲れ切った身体は、薄暗い部屋のベッドに横たわっている。月夜と隣の部屋から差し込む電球の明かりがほんのりと部屋の中を照らし、静寂が漂っている。冷たいエアコンの空気が室内に広がり、ひんやりとした肌触りの良いベットシーツに足が触れると、その感覚がゆっくりと全身に広がっていく。


常に色んな責任を背負うシングルマザーの私にとっては、自分をリセットするための非常に重要な時間なのだ。


私は、自分の皮膚とベットシーツの感覚を感じながら、ゆっくりと深く息を吸い、呼吸を整えていく。鼻からゆっくり「空気?」と言われる目には見えない「何か」を身体に取り込んでいくのだ。その「何か」が身体の中に浸透し、口からゆっくりと出ていくように見える。


呼吸は目には見えない「何か」を身体に取り込む機能。その「何か」は空気と融合してどこかへ消えていくのか、その行方は分からない。もしかしたら、その「何か」は半径数センチあたりで身体に戻る仕組みなのかもしれない。魂のように肉体から切り離せない「何か」なのかもしれない。


そんなことを考えながら、人間の皮膚が驚くべき「素材」であることに、じわじわと気づき始めるのだ。


全意識が皮膚にとどまる瞬間、この皮膚が持つあらゆる感覚が「なぜ」存在するのか疑問に思う。

別の言葉で言えば、「なぜ?人間は、感覚を感じる機能を持っているのだろう」と思考の奥底で問いかける。存在しているということは、存在するための理由が無いと存在できないのだから。


すると、どこからか「皮膚で感じる感覚は、あなたの存在を感じるためにある」という答えが浮かんでくる。


当たり前すぎて誰も疑問に思うことはないかもしれない。または、その疑問を言語化することなくに疑問を忘れてしまうこともあるだろう。

極論を言えば「どうでもいいくらい、意識しなくても生きられるから」


だけど、「皮膚で感じる感覚は、存在を感じるためにある」。もう少しだけ、深く考えてみよう。もし、全五感が失われたら、私たちの存在はどうやって証明できるのだろう?


残るのは、意識だけ。


その意識は「肉体」と呼ばれる、人間の身体つまりは「ボディースーツ」がなければ、この世界を空気のように漂っていることになるのか?


そんなことを考えると、肉体が死んだ後の世界は、肉体がないだけで、この地球や宇宙のどこへでも自由に飛ぶことができるのか?あるいは個人の意識は、この世界の空気と融合して集合意識となるのか?


私は、眠気の世界と顕在意識の狭間で、そんな考えを広げていた。

そいて、気がつくと、私はどこか遠い夢の中へひとり旅立っていた。



第二章  夢の世界


夢の中の、意識と身体の境界があいまいになる感覚は、きっと私だけの感覚ではない。夢の世界では、目の前に、リアルな日常風景が広がる場合もあれば、不思議な風景が広がり、現実とは異なる出来事が起こることをある。それが、夢という感覚だから。

時折、私は自分自身が空中を漂う存在として感じることもある。肉体の束縛から解放された状態で、自由に思考し、新たな世界を探求することが夢ではできるのだ。


しかし、その一方で、夢の中には不可解な謎も多く存在する。現実と夢の狭間で揺れ動く私の思考は、次第に夢の世界のまた夢の奥に飲み込まれていくような感覚にとらわれる。


夢の中の人々や風景は、まるでミステリー小説のような謎めいた存在。彼らの存在や意図が私の意識の奥深くに響き渡り、私は解明を試みる。知っている人も親しい人も、赤の他人も、夢に現れることが多いが、現実世界の住人とは、似ているようで実は多少違う。まるで、ドッペルゲンガー=もうひとりの自分が襲ってくる恐怖/映画『アス』の人々のようだ。


夢の中での探求は、現実の謎解きとは異なる道を辿る。夢の中の糸口や証拠を辿りながら、私は自身の存在や意識の本質に迫ろうとする癖がある。


しかし、果たして夢の中で見つけた答えが、現実の意識と身体の関係を解き明かす鍵となるのか。それとも、夢と現実の世界には深いつながりがあるのか。謎めいた探求の旅が続く中、私は眠りから覚める瞬間を待ちながら、意識と身体の微妙な絡み合いに思いを馳せるのだった。



第三章  現実と夢の狭間



眠りから覚める瞬間、現実の世界が再び私を包み込む。身体が目覚めると同時に、夢の中での探求や謎解きは遠くへ遠くへと遠ざかっていく。

日頃、「現実」と呼んでいる世界に戻る。

しかし、夢の感覚と意識の糸は断ち切れず、しばらく深く思考に残ることもある。夢の中で得た洞察や感覚が、現実の日常にも影響を及ぼす感覚になるのだ。


部屋の明かりが目に刺さり、薄暗さが一瞬で消え去る。エアコンで冷えたベットシーツのひんやりした感触も、次第に過去へ忘れ去られていく。まるで、過去という時間の概念が幻のようにも感じる。私はただ、夢の中での独特な体験と、私の内なる世界に根を下ろし、日常意識を彩っていくだけ。


この感覚を誰かに伝えようと試みこともない、理解されたいと思う欲も広がらないし、答えのあるものでないことも理解している。


しかし、この生きている美しい感覚のコレクションということに、興味がある人がいるならつながりたい。一人で味わうのには、もったいなすぎる程、超越した感覚なのだから。



思考の奥底に潜む疑問や考えは、まるでミステリー小説の謎解きを進める探偵のように、私の意識を刺激し続ける。意識と身体、夢と現実の相克は、決して終わることはない。それぞれの要素が絡み合いながら、私の存在の謎を深めていく感覚しかないのだ。



第四章  感情の糸と夢の関係


次の夜、再び眠りにつく前に、私は深い呼吸と共に、私の意識の奥深くへとダイブしていく。ベットに横たわり、深い息を吐きながら、再び夢の世界への旅に出る。


何が待っているのか、どんな謎が私を迎えるのか。それを知る余地もないまま、私の意識は眠りの世界へと融合していく。別世界への冒険が始まるのだった。


夢の世界の感情と現実世界の感覚が、生きていることへ与える影響は深く、複雑なものだ。


夢の中での喜びや悲しみ、恐怖や興奮は、私の心に鮮烈な印象を刻み込むこともある。それらの感情が現実世界へと持ち込まれると、日常の中での喜びや悲しみ、恐怖や興奮にも新しい解釈が生まれる。


夢の中での幸福感が私を包むと、現実の喜びも一層深く感じられる。逆に、夢の中での悲嘆が心を揺さぶると、現実の悲しみも一層切なくなる。

夢と現実を繋げているものは「感情の糸」なのかもしれない。


夢の世界での勇気や、思い切った決断が私を鼓舞すると、現実世界の困難にも立ち向かえる力が湧いてくる。同様に、夢の中での挫折や恐怖が私を弱めると、現実世界の困難もより重く感じられる時もある。


すべて「感情の糸が感覚へ繋がるのだ」


夢の中での新たな発見や洞察が、現実の問題解決や創造的なアイデアの源となることもあるのだけど。今のようにね。


しかし、夢の世界と現実世界の境界は曖昧であり、常に相互に影響しあっているとは限らないことも十分に理解している。時には、夢の中での感情や体験が現実には繋がらず、ただの過ぎ去った幻影となってしまうこともある。


どこかへ繋がる幻なのか、脳が創った映像なのか?そんな疑問を脳裏に想像させ、夢の映像を記録できる装置を開発している人たちの話を思い出す。夢、意識、感覚に疑問を持つ人間は、多くいるようだ。



第五章  意識のタンク


これは全て私個人の感覚にすぎないが、意識とはまるでタンクのようなものだと考えることができる。現実世界で私たちが経験する感情や体験はデータ化され、その意識のタンクに蓄積され、別のエネルギーとして保存されている。そして、夢の世界は、その蓄積されたエネルギーを利用して表現される仕組みだと考えている。


私たちは、日々の喜びや悲しみ、怒りや恐怖といった感情を経験するでしょ。これらの感情は、私たちが存在する限り、意識のタンクに貯められていく。それはまるで息を吸い込むように、私たちの内側に、次世代につながるようにDNAにも取り込まれていくのだ。


そして、呼吸はもっとも重要な役割を果たす。鼻からゆっくりと息を吸い込むと、私たちは目には見えない「生命のエネルギー」を取り込んでいることになるので、このエネルギーは私たちの身体に浸透し、そのエネルギーは、意識のタンクとも繋がっていく。呼吸をすることで私たちは生命の力を補給し、同時に意識のタンクに蓄積されたエネルギーも活性化させるのだ。


そして、この意識のタンクは、私たちが夢を見るときに重要な役割を果たす。夢の中で私たちは過去の感情や記憶、体験を再現し、処理し、統合することができる。それはまるでタンクから取り出されたエネルギーが夢の舞台に投影されるかのような感覚なのです。



第六章  マインドフルネスの世界へ


陽光が優しく差し込む静かな部屋で、私は深い呼吸に身を委ねる日もある。心地よい風が窓から入り込み、私の肌をなぞる。この瞬間、私は存在することを感じる。


「生きていることを証明するものは、感覚なのかもしれない」と、私は次第にマインドフルネスの世界へ思いを巡らせる。目を閉じ、心の奥深くに潜む哲学の父ソクラテスの「無知の知」を思い出す。

この広大な世界には、知らないことがたくさんある。当たり前のように存在している感覚や身体の機能は、果たして当たり前なのだろうか?


その答えは見つけられないかもしれないが、私はその謎に向き合いたい続けたいと思う人間なのだ。


例えば、赤ちゃんは生まれた瞬間から、何かしらの知識を持ってこの世界に誕生する。
例えば、泣けば気がついてもらえる。必要なものを大人が与えてくれる。母乳の飲み方、呼吸の仕方、突然笑顔になることだって、立派な知識。本能という知識。


それは、一体どこから来たのだろう?


それは、意識なのだろうか?それは、凄いことなのではないか。
そんなエンドレスな疑問は深く追求すればするほど、ますます複雑になるが、だからこそ面白い。


この話は果てしないので、今はひとまず私の話の終わりにしましょう。



第七章  ネバー・エンディング



私の解釈として、私たちの存在を象徴するものとは「呼吸だ。」息をすることで私たちは生きていることを感じる。それは、ただの生理現象ではなく、自分自身を確かめる瞬間であり、生きていることを感じなくてはならない「人間に与えられた大仕事」でもあるのだ。


そして、意識と感覚の世界を深く探求することで、私たちはマインドフルネスの世界観にたどり着くことができる。


今この瞬間に意識を集中し、感覚や思考、感情を受け入れる世界。過去や未来の束縛から解放され、ただ今この瞬間に全身全霊を注ぎ込むのだ。


簡単なことではないが、少しトレーニングとコツをつかめば子供でもマインドフルネスの世界観を体験することはできます。


目を閉じ、深い呼吸に身を委ねる。空気が鼻から流れ込み、肺に広がる温かさを感じる。周囲の風景が私に語りかけ、鳥のさえずりが耳に響くと、現実と呼んでいる世界へ戻る。


マインドフルネスの世界は、私たちが日常の喧騒から離れ、内なる平穏を見つけるための道とも言えるでしょう。



私は、深い深呼吸を繰り返し、感覚の饗宴に浸りながら、この世界の静寂から一歩離れる。


マインドフルネスの旅は穏やかでありながら、力強さを秘めていると思う。だから、2500年以上もの歴史があるのだ。もしかしたら、もっと前からあるのかもしれないが。



私たちは、深い内省の中で、感覚の豊かさに気づく力を持って生まれている。足元の地面の触感、風が髪をなびかせる感覚、そして心地よい陽射し肌を包む究極に幸福な感覚。


まるでそれを、感じるためにこの世界に肉体をもって降り立ったかのようだ。感覚とは気がつくためのプロセスなのかもしれません。


「マインドフル思考」を手にすると、今この瞬間、私たちは時間の束縛から解放され、純粋な存在になる。


思考の渦に飲み込まれることなく、ただただ感じることに集中する。喜びや悲しみ、怒りや幸せ。


それらは私たちが生きている証であり、人間の感覚が奏でる「人生という幻のアートなのかもしれない。」だから人生は、表面上だけ困難に見えても、本質的に美しい瞬間にも溢れている。



色んなことを話してしまったけど、私はあなたに聞いてみたいことがあります。


「あなたは、自分が生きていることをどんな感覚としてとらえていますか?」




私は、こう思います。


「本当の意味で、あなたが生きていることに気がついた時、あなたの人生がやっと、はじまると。」

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