スピリチュアルな人間たちに対して「精神疾患」という言葉をぶつけることの時代錯誤性について
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新興宗教の教祖をはじめ、スピリチュアルなことを言い出す人間を「精神疾患」と呼んで批判する人間がいるが、
学問としての「精神分析」が20世紀後半のヨーロッパでたどった変遷を少しでも学んだ人間からすれば、それはあまりにも時代錯誤的な言説であり、トマト祭りで投げつけられるトマトに匹敵する威力も持たないような、不発の手りゅう弾にすぎないことがわかるはずだ。
スピリチュアルな人間が、精神分析という観点から「精神疾患」に分類されるのは、「1+1=2」と同じくらい自明な真理である。それと同時にこの言明は、「精神分析」という学問の持つカルト性を疑ったことのない無垢さをにじませている意味で幼稚であると言わざるを得ない。
安易にこうした言葉を吐ける人間は、少なくともフーコーやドゥルーズをはじめとしたポストモダンの思想家が「精神分析」に対して投げかけた痛烈な批判を耳にしたことすらないに違いない。もしそうでなければ、フロイトの「エディプス・コンプレックス」を真面目に信じている類の「原理主義者」であるかのどちらかだ。
ドストエフスキーの例を考えてみてほしい。彼は生涯を通して重度のてんかんの発作に襲われ続け、それに伴う幻視体験も稀ではなかったという。現代的に言えば立派な精神疾患だ。だが彼は立派な芸術家として歴史に名を遺した。
てんかんを「精神疾患」と名付けるようになったのは、近代になって医療行政が整備され、「精神病院」が形成されるようになってからだ。フーコーが「監獄の誕生」で分析した通りだ。ベンサムが「パノプティコン」という形で提示した「看守の内在化」という発明によって、逃れようがない監視と処罰の網の目の中に人間が取り込まれていく中で、その規律の網の目から逸脱する「他者」を原理的に排除する必要性が生じた。その結果として、「精神疾患」というラベルを張り付けて市民空間から隔離することで、権力は支配の安定化を図った。
精神疾患の人間を目にする時、近代的世界観に安住している人間は、果てしない暗闇、おぞましい深淵を覗き込むような気持ちがするに違いない。だから自発的に遠ざかる。それは近代における「タブー」だからだ。バナナを食ったら死ぬと思っている未開の部族が、バナナを見てがくがく震えだし、逃げ出してしまうのと同じ原理だ。
だが少なくともポストモダンの思想家たちはそのタブーにメスを入れようと奮闘した。シュルレアリストたちが描く神経症的な表現に、資本主義からの脱出口を求める人間のエネルギーのほとばしりを見た。「疾患」とラベルを貼ることで一般人の目に見えない場所に「狂人」を隔離しようとする社会制度を痛烈に批判した。
タブーから目をそらそうとする人間と、タブーにメスを入れてそこに新しい真実を発見する人間、どちらの立場を先進的とするかは、各自の判断に任せたい。
日本では、ジャック・ラカンが登場したフランスほどには精神分析という制度が徹底されなかったがゆえに、「精神疾患」という概念、およびそれを病院制度に組み込むことによる社会学的影響についての真剣な検討がなされることがなく、ムック本レベルの浅薄な理解のみが大手を振って流行している。
「正常」と「異常」を分離する思考そのものを批判したのがポストモダンであり、その議論をそもそも知らないのであれば少なくともWikiで調べてほしいし、それを知ったうえであえて批判するのであれば、スピ系だけでなく、現代アートも現代哲学もすべて否定する結果になることを自覚してほしい。極左、極右、お笑い、芸能、作家、芸術家、サブカルのトップランナーたちを全て否定し去った先に、豊かな文化生活が残るのであれば、どうぞ近代的世界観の中の楽園を謳歌してほしいものだ。
結論として、
という批判を投げつけてくる人間に対しては、豊かな人生を送るためにも、千葉雅也の「現代思想入門」をおすすめしたい。それを読めば、デリダ、ドゥルーズ、フーコーというポストモダンの思想家たちが、「正常」と「異常」を安易に二分する思考に対してどのようなアンチテーゼを投げかけ、「精神疾患」という概念に隠れた権力にメスを入れたかがわかる。それで物足りなければ、ドゥルーズ+ガタリの「アンチ・オイディプス」を読んでほしい。
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