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私が探求したい学問について

いろいろな分野の本を読んでいると、関心が取っ散らかった人間に思われることがあるし、実際に取っ散らかることもある。
しかし、それと同じような批判を浴び続けた学際的な数理研究者であるマンデルブローが、ついに「フラクタル」を発見したことで自らの追い求め続けてきた統一テーマに初めて名前を与えることができたように、今日たまたま読んだ経済学の本でその統一感覚の兆しを得ることができたので、その感覚をメモしておきたい。

社会・経済とは人間そのものである

デュルケームが「自殺論」を書くころには、肥大化する都市を背景に「社会」とともに「経済」が生み出され、同時に「人間」も生み出された。私たちが経験する現実はこの「人間」フィルターを経たものであり、ナマの現実ではない。人間は五感から得られる膨大な情報を「差異の体系」として相互に関係づけることで認識を行う。その際に人間が採用するのは、我々の社会が伝統的に採用としてきた認知パターンであり、それが必ずしも最善とは言えないが、ある程度の成果を発揮してきたような思考様式である。

地域・時代による思考様式の差異を学習すると、思考が柔らかくなる。たとえばイヌイットは雪を表す表現を20種類持ちながらも、極寒の地の生活と関係ないミミズや虫などをひとまとめの言葉で表現してしまう。虹を何色に分けるか、その違いが認識の差を生む。機械翻訳全盛の時代にあって母語以外の言語を学ぶ意義はその点にあるのであって、思考様式の体操としてこれ以上の方法はなかなか見つからない。

言葉だけでなく、人間相互の関係の在り方も同様だ。自分をどのような存在として定義し、その周りを生きる他人とどのように関連付けるか、という思考様式が、「所有」とは何か、「家族」とは何か、「国家」とは何か、という問いに、自らの知覚と能力に応じたこれまでの経験とつじつまが合うような形で、暗黙のうちの答えている。ダニが、特定のにおいに反応する嗅覚と温度感覚以外の感覚に対して盲目であるように、人間は自らの社会的知覚と能力を超えた感覚刺激に対して盲目である。

優れた思索はつねに、その思考様式のオリジナリティが色濃く投影されている。名著と言われる本の魅力は、そこに盛られた内容よりもむしろ、その議論が展開される筆者の思惟の空間の中にこそ存在する。思考様式の伝播こそがコミュニケーションの真の目的である。

思考様式とは地層であり、澱のように積み重なった世界観の死骸の堆積物である

これまでに述べてきた思考様式を一つの固まった枠組みとしてとらえるのは間違いであり、むしろ地層のようなものとしてとらえるべきだ。それは人類全体の歴史を通して、あるいは所属する共同体が歩んできた歴史経験を合理化するために最適化された世界観の積み重なりである。岡田斗司夫が「世代とは地層である」というように、思考様式とは地層のようなもので、明確な境界線は存在せず、急速に変わるものではなく(たとえば、リーマンショックによる経済学へのインパクトのように一時的に火山灰のような層がさしはさまれることはあっても)、地質学的時間を経て変化していくものだ。

サイケデリクス物質は思考様式をリセットする

サイケデリクス物質はこのフィルターを取っ払い、RAWデータのアクセスを可能にする。だが、重要なのは、リセットされて空白となった場所に、どのような新たな思考様式=フィルターをもたらすかだ。あまりにも複雑な本当のリアリティからは、どのような恣意的フィルターを導くことも原理的には可能だが、このフィルターが独我的世界観としてとどまることなく、持続可能で幸福な社会を形成できるかどうかは、それが複数の人間の間で共有可能であり、愛の循環を生むようなシステムの萌芽を持つ思考様式であるかどうかにかかっている。

これまで地球上で実践されてきた思考様式は極めて不完全であるが、もちろんそれを改善すべく、学問的世界の内外を問わず、様々な案が提示され実践されてきた。所有の概念を超克するヒッピー運動のようなものがそうだ。彼らは「ライフスタイル」として自分たちの思考様式の変容を社会的実践にまで昇華し、理想の共同体をつくる先駆的試みを行った。オーウェンをはじめとした社会主義者たちの実験もそれにあたるだろう。

一人一人の思考様式の変容以外に、社会変革をもたらすエネルギーの由来は存在しない。社会に「資本家」と「労働者」が同時に誕生するように、学校に「いじめっ子」と「いじめられっ子」が同時に誕生するように、社会を構築するシステムも「差異の体系」であり、それは各個人の中に地層として積み重なった思考様式の投影なのである。

重要なのはそれが「システム」であることだ。システムはその中に持続可能性・循環性を含む。流動的な社会の中でシステムを存続させていくためには、知性が必要だし、その場その場に応じたフィードバックと改善が必要である。

私の個人的意見では、このような形で、自らの思考様式の変容=「悟り」を、社会的思考様式の変容として投影していく=「ユートピア建設」以外に、人間として心の底からの喜びを感じることはありえないと思う。もしそれ以外の方法で感じる喜びがあるとしても、それは粗悪な代替品であるにすぎない。なぜなら、「人間」という社会的動物の持つ知覚と能力が最大限に発揮されるのは、その二つの行為を通してのみだからだ。

もちろん、目の前の人間に自分の身を差し出し、愛を与えることが人間のもっとも本質的欲求であることには変わりない。しかし、それを知性の力を介して循環可能な動的システムとして構築し、さらなる発展を目指していくこともまた、人間の本質的欲求である。

私が追求したい問いとは、よりよい人間の思考様式とは何か、それによってつくられるよりよい社会システムとは何か、である。それは特段期限のある質問ではなく、私が死んでも誰かが追い求める問いであり、できれば人類全体で追い求めていきたい問いである。

もちろん、限られた人生の時間枠の中で、もう少しテーマを狭めていく必要があるが、背景としてこうした世界観を共有できる誰かと出会えたらうれしいと思う。

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