内臓の声に耳を傾ける:「脳化」という世界精神と戦うために
三木成夫さんが書いた「内臓とこころ」を読んで、雷を受けたような衝撃を覚えました。
私はこれまで、嗅覚が五感の中で特別だとか、脳よりも腸が大事だとか、チャクラの秘密だとかに興味を持ってきたのですが、解剖学者である三木成夫さんの思想は、まさにその探究の終着点とも言えます。
(ここからは、それを受けた私の感想です。)
AIは、脳の不完全な模倣です。あるいは、これからもっと進化して、脳を超えるかもしれません。しかし、実際には、人間の凄さは脳ではないのです。
内臓の感覚が脳と連携して「心が目覚めた」状態になっていること、そのことに人間の独自性があるのです。
動物は、内臓を持っていながら、その心を自覚していません。人間は、発達した大脳によって、内臓感覚を自ら省みることができます。外皮と筋肉が神経によって仲介される「体壁系」(動物系)と、腸管と腎管が血管によって仲介される「内臓系」(植物系)がシームレスに繋がっていることにこそ、人間の人間たる所以があります。
ここで、哲学の中で私の好きな2人の人物がいます。それはニーチェとアランです。
ニーチェは、善悪の道徳観念を超えた「力への意志」を求めました。形象化不能なディオニュソス的混沌を求めました。ここからは偏見丸出しの持論ですが、私は彼の求めるカオスは、内臓にこそあると考えます。内臓の感情は、形象化不能です。内臓で感じた感情を、我々は頭脳というスクリーンに映してさまざまな解釈を加えます。しかし、そのスクリーンの上で何を論じようが、内臓は素直なのです。腹が空いたら食べるしかないし、おしっこをしたければ出すしかない。これらのある種、原始的な欲求が、ヘーゲルやカントのような頭でっかちの脳細胞のスクリーンに投影されて、諸々の善悪の観念として高尚に論じられている状況に耐えられない、このような歯痒さがニーチェには感じられます。
アランは、私たちの精神生活における幸不幸が、意外にも身体的な要因で決定されることを説きました。赤ん坊が泣いている時、ピンが刺さっていることの身体的不快感が本当の原因であるにも関わらず、親はそれがわからずにあれやこれやの対処をするが一向に泣き止まない、という譬え話は有名です。私はこれは単なる処世術の一環ではなく、形而上の真理ばかりを追い求めがちな哲学者が見落としている、深淵な真理を含んでいると感じています。
ここで重要なのは、内臓は原始的ではあるが、決してそれ自身の性質として、闘争と破壊を生むものではない、という事実です。
内臓には確かに、「自己保存」の欲求があります。その本能は「食」に現れます。内臓はものを吸収し、排泄するところにその本分があります。
しかし同時に内臓には、「自己犠牲」の本能が組み込まれています。その本能は、現代においては意外に響くかもしれませんが、「性」に現れます。自己の生存を不利にしてまで、我々は子供を産み、子孫に未来を託します。これが生物学的には結局のところ、種としての自己保存の機能を果たします。
性とは本来、内臓の自己犠牲の発露であり、その快は崇高な生命のリズムへの一体化の印であるはずです。しかし現代はフーコーが『性の歴史』の中で分析したように、性が商品化され、手段となり、単なる欲望の表現として用いられるようになってしまいました。これは、本来の「性」ではなく、脳に歪に投影された「性」の幻影に過ぎません。
この意味で、ルソーが「人間不平等起源論」で描いた「自然人」の二大原則、すなわち「自己保存の欲求」と「同種族への同情の本能」は、「食」と「性」という2大原理として、内臓にがっしりと組み込まれているのです。
その意味で、ルソーが描く「自然状態」から「社会状態」への堕落は、我々の脳の過度な発達の過程と準えることができるでしょう。
唯脳論者の養老孟司が皮肉にも指摘したように、我々の社会は急速に「脳化」が進んでいます。ルソーはこれを「社会化」として批判し、フーコーはそれを管理社会として批判し、ニーチェはそれをキリスト教道徳として批判し、マルクスはそれを資本主義として批判したでしょう。しかし、この「脳化」という世界精神こそが、これらの思想家が戦ってきた本当の敵なのではないでしょうか?
資本主義の行き着く先である「グローバリズム」は、この地球上の全ての経済活動を神経網で監視し、その資源配分を最適化しようとする試みです。つまり、全地球を一つの神経網によって結ばれた「経済脳」の支配下に置くことこそが、資本主義の究極的な目的地であり、これは誰かの陰謀とかそういうものではなく、脳を中心とする神経組織そのものが持つ基本的な性質なのです。そしてもちろん、「経済脳」による高度な計算においては、ベンサム的な最大多数の最大幸福を求める功利主義がその最適解を提示することになるでしょう。
そして、脳に原型を持つ「科学的理性」には、形象化可能なものしか認識することができません。全てを明るみの上に出し、明晰さのもとにそれを把握しようとします。ニーチェが嫌った「アポロン的な知」、フーコーが嫌った「パノプティコン」、アガンベンが批判的に分析した「オイコノミア的統治」は全て、脳が行う現象を社会経済哲学的に解釈した結果と捉えることができます。これらの脳の活動の結果、暗がりの中にある神秘はその神秘を剥ぎ取られ、丸裸になった無惨な姿で世界の果てに追放されることになります。
そしてもっとも重要なことに、これらの「脳」をはじめとする感覚運動系は、「手段」であり、それ自身は目的を持ちません。何のために生物は動く必要があるのか。あくまで、内臓が食物を得るための「手段」なのです。餌がある場所に移動し、必要であれば敵を倒して(ここに、脳化した社会が必然的に直面する「闘争」と「破壊」が暗示されますが)食物を手に入れるための「手段」にしか過ぎません。
これらの特徴は、私たちの住む現代社会の特徴ではないでしょうか。特に、手段ばかりにこだわって目的を喪失している様子は、内臓をすっぽり抜かれた「中味のない人間」(アガンベン)の絵がピッタリ似合います。内臓を抜かれた人間は、正真正銘のロボットです。
さて、「脳化」の渦に巻き込まれているのはこの記事を書いている私自身も例外ではありません。ではどのようにこの脳化に抗うことができるのか?
かつては資本主義と立ち向かう共産主義の中にその萌芽はありましたが、「主義」=イデオロギーと化した時点ですでにそれは脳化の片棒を担いでいます。しかし実際には、彼らの敵は社会全体の「脳化」の不可避的なプロセスの進行だったのです。それはどちらかというと、ミヒャエル・エンデの『モモ』で描かれる「灰色の男」に似ています。彼らは顔を持たず、名前を持たず、知らぬ間に時間を奪い、人間の自由な想像力を奪っていきます。
しかし、脳の発達自体が悪いわけではありません。問題なのは、それがバランスを超えて肥大し、内臓の機能不全を引き起こしていることです。私たちはもはや内臓の声に耳を傾けることを忘れました。
この「脳化」に対する抗争こそが、私は現代人が考えるべき究極の闘争であると私は考えています。
さて、ここでLSDトリップを通して大宇宙の神秘を悟ったと語るハーバード大教授、ティモシー・リアリーがその著書「Your Brain IS GOD(脳こそが神だ)」の中で、タイトルとは相反した描写をしているのに私は注目したいと思います。彼は「脳こそが神だ」と宣言しながらも、LSDの体験では身体中の細胞の中に人類の両生類からの進歩の歴史を追体験した様を描写し、この大宇宙の壮大さをも凌ぐようなスケールで展開される内臓感覚の根源的リズムを讃えています。ここで彼が礼賛していた「神」というのは、実際には脳ではなく、そこに全てを投影している内臓感覚そのものだったのです。
これは、古代インドから伝わる伝統的なチャクラの法則と矛盾しません。つまり、人間は内臓を通してチャクラから流れ込む大宇宙のリズムと一体化し、その片鱗を脳細胞で感じ取っているに過ぎません。
さて、そう考えると、私たちの社会で進む「脳化」とは、内臓感覚を形象化する「手段」であったはずのプロジェクターばかりが肥大化し、本来のエネルギーの流入経路が詰まってしまっている状態を指します。これは食と性を取り巻く問題として噴出し、人間の不幸感覚を増大させるでしょう。そして最悪の場合、死にいたります。というより、我々の社会は今、脳化による死に向かってまっしぐらに突き進んでいると言っていいかもしれません。
それに抗うには、どうしたらいいか。それをこそ、これから内臓で考えていきたいと思います。