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「何者でもないこと」の力

世界を変えるためには、大きな力が必要だろうか?
有名になって、金を儲けて、政財界とコネを作らなければ、世界に影響を与えることはできないのだろうか?

その反対だ。そうしたアプローチを取っても、すぐさま権力の網の目に絡め取られて無化される。あなたが何者かになった瞬間に、そのアイデンティティにつけこまれる。

むしろ今の時代、世界を変えるために必要なのは、「何者でもない」ことだ。

なぜ天安門での蜂起は、あれほどの弾圧を受けたのか? 
それは支配者が、名付けようのない恐怖を感じたからだ。
なぜ恐怖だったか? 
それはあの時立ち上がった民衆に、「名前」がなかったからだ。
彼らは特定の利益を共有するグループではなかった。彼らはただの「生きる存在」(ホモ・サケル)としか言いようのない存在として立ち上がり、抗議の声をあげた。
その事実そのものが、国家という権力装置にとっての最大の脅威だったのだ。

社会運動だけではない。
より良い人生を生きるために、
私たちは何者かになることではなく、
「何者でもない者」になることを目指さなければならない。

それは「旅人」に似ている。

故郷を離れて見知らぬ土地に向かう途上の車窓を見つめる「眼差し」。
「私」を定義づける一切の形容詞を排した上で残る私の存在。
「表現」の世界に浮かび上がろうとする欲動を押さえ、その深層に滞留する。

そしてもちろんそのことは、「何物でもない世界」を見つめることを意味する。

言うなれば、色を塗る前の塗り絵のようなものだ。
出来合いの価値体系へと射影する以前の「事実」そのもの。
空間的表象として位置付けたいという欲動を押さえ、ただその事実が立ち現れてくる様を見つめる。

ラカンはそれを「現実界」と呼んだ。人間は長時間その現実界を直視することはできない。人間はそれに意味を与え、その意味の連鎖が形作る「象徴界」というある種の幻想の世界を生きている。

だが、ほんの一瞬、それを垣間見ることがある。
名付けられないもの。
一切の意味を剥ぎ取られた世界を。

人は「無意味」を恐れる。それは暗黒の深淵であり、覗き込むものを無気力へと陥れる、と考える。
だが、私はそうは思わない。
無気力の本当の原因は、世界の意味を求めようとする焦りにある。
意味を求める営みを放棄した瞬間に、無-意味の空間が現れ、そこにあるのはただ本当の心の安らぎである。

「無-意味」の空間を、「無-意味」の人間として凝視する。
これ以上の安らぎがあるだろうか?

なぜそんなに名前を与えたいのだろうか?


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