潜在的共依存

 一眞くんとは中学二年のときに出会った。
 当時の彼は、顔が隠れるほど前髪が長く、縁なしの眼鏡をかけていた。授業が終わっても塾の教室から出ていかず座っていた彼に話しかけたのは、ただの好奇心からだった。夏休み最終日のことだった。

 どうしたの、と聞くと彼は驚いて私を見た。「学校が始まってしまう」
 私に向けて言ったにしてはやけに遠い目をして呟いた。
「行きたくないの?」
 黙りこくる彼にポケットに入っていた飴をあげた。握り締めるだけで口にしてはくれなかったけど、隣に座ってそのまましばらく居続けると、彼は淡々と身の上話を始めた。
 小学校高学年になる頃から目つきが悪いと女子に怖がられ、何か悪いことが起こるたびに自分のせいにされたこと。男子にいじめられ始めたこと。年々酷くなっていくそれに抗う気もなくなっていること。気づけば自分の顔が嫌いになっていたこと。何か言われるのが嫌で顔を隠すように髪を伸ばしていること。そのせいで余計に気味悪がられるようになったということ。どんどん暗くなっていく自分を母親も避け始めたということ。どこにいればいいのかわからなくなってきていること。
 そんなに簡単に話せる内容ではないはずだ。何故私にそんな話をしたのか聞くと、「夏期講習が終わったらもうここには来ないから」と答えた。思えば、夏休み前に彼をここで見かけたことはなかった。
「私、大学受験までここにいるよ」
 多分それは、少しの同情と好奇心。
「しんどくなったら来てよ。話すだけでも幾分かマシになるよ」
 彼はポカンとして、それから笑った。名前も知らない女の子に俺は何を話してんだろうね、と自嘲気味に。

「気が向いたら」
 そう言って帰っていったくせに、次に彼に会ったのは一週間後だった。夜の九時に授業を終えて塾を出ると、なあ、と声をかけられた。入り口のすぐ横に、汚れたカッターシャツを着た彼が立っていた。
「来て」
 そう言って、近くの公園に私を誘った。彼は挨拶も何もかもすっ飛ばして、学校が再開して一週間自分の身に何が起きたかをあげていった。その間私は濡らしたハンカチで彼の顔を拭いていた。口の端には切れた痕があった。
「そういえば名前は?」
「今更だね、いつ聞くんだろうって思ってたよ」
「こんなつもりじゃなかったから」
「小山由紀、そっちは?」
 この時、一眞くんが名前しか言わなかったから、彼の苗字を知った今でも私は呼び慣れた名前で呼んでいる。

 高校入学を機に一眞くんは変わった。
 髪を切って、バンドマンによくいるマッシュみたいになった。前髪は眉あたりまで短くなって、眼鏡を外しコンタクトをつけるようになった。切れ長の綺麗な目をしている。入学から二年経った今では、友達に囲まれて笑っているところをよく見かける。
 私はといえば、受験勉強に集中したくて一人でいることが増えた。仲の良い子もみんな同じような感じで、集まっていても単語帳と仲良くしていることの方が多い。
 今日も放課後は一人で教室に残って、そろそろ下校しなさいと放送がかかるような時間まで勉強していた。塾まで一時間ほど暇になる。どこで時間を潰そうか考えながら昇降口に降りてくると、ロッカーの前に一眞くんが立っていた。
「こんな時間まで何してるの?」
 話しかけると、遅いな、とため息混じりに言われた。
「今から塾?」
「一時間後ぐらいかな」
「じゃ付き合ってよ」
 彼は私を塾からほど近い公園まで連れて来た。例の公園だ。中学の約二年間、ここで月に二度ほど彼の話を聞き続けた。彼の身に訪れた不幸を私はきっとほとんど知っていて、彼がそれほど自分のことを話すのは私くらいなものだろう。

 彼に、所謂高校デビューを果たすように言ったのは私だった。とはいえ、ただ髪を切って眼鏡をやめるように言っただけ。その下にどんな顔があるかは知らなかったけれど、多くの人間はそれだけで彼に抱く印象を変えるだろうと思ったからだった。彼は見事に化けてみせた。その結果彼の周りに人が集まり、その人たちがこの二年間離れなかったのは彼の自信に繋がってもいいと思うけれど、そう上手くいくもんじゃない。

「もう無理しんどい」
 公園のベンチに腰を下ろすとため息とともに一眞くんはそう吐き出した。無理無理……と頭を抱え出す。
「楽しそうだね、毎日」
「本当にそう思ってんの?」
 適当に返すと睨まれた。わかってるだろと言いたげなその表情に、反射的に「ごめん」と謝ってしまう。
「向いてない、やっぱり向いてない」
そう繰り返しながら、彼は何度もため息を吐き出す。
 遊具のない景観重視の公園には私と一眞くんしかいなかった。薄ぼんやりと蝉の鳴き声が聞こえた気がした。途端に近くの自販機にあるコーラが飲みたくなってくる。すぐそばの大通りを車が途切れずに走って行くので、赤や黄のライトが視界の隅で忙しなく動く。梅雨明けの夕方は長い。七時でも十分明るくて、早くから点灯している電灯が風景から浮いていた。
 公園内をキョロキョロ見渡す私を無視して、一眞くんは話を続けた。
「どこかで思っちゃうんだよ、何も知らないもんなって。言ってないから知らないのは当然なんだけど。でも知らないと、俺って全然中身がないんだよ。俺自身に何もないんだ。だからずっと、高校に入ってからずっと、何にも確証が持てなくて怖くてたまらない」
 もともと魅力はあったはずだ。だからこそ今、彼の元に人は集まる。だけど彼自身はもうそれに気付けないようだった。長い間否定された自分を信じ続けることは難しい。自分も周りも信じられなくなって、そう思わせるような出来事を経て、確立したのが不安定な今の自分だった。
 彼が今でも思い出したかのように人から顔を背けるところを幾度となく見た。相変わらず自分の顔も自分のことも好きではないようだった。自己肯定感なんてそんなものすぐには高くならない。
 
 それは私も同じだった。私の場合は小さな、とても小さな、彼と比べるのも烏滸がましい不幸とも呼べぬようなものだった。
 中学生の頃に女子のグループでよくある標的が一度回ってきただけだ。仲間外れに始まり、無視と軽度の嫌がらせが一ヶ月。それだけで人が容易く絶望できるということに驚いた。ザアッと一瞬で体温が下がるようなあの感覚を忘れることができない。元気いっぱいのお調子者だった小山由紀は消えて、一ヶ月後には、人の顔色ばかり伺い信頼という言葉の軽さを思い知った私が誕生していた。
「何でもいい、確証が欲しいんだ。自分がここにいていいっていう確証が」
 これは彼のあの頃からの口癖で、これまでに何度も聞いている言葉だった。
「誰かの何かになりたい」
 俯いてそう言う一眞くんに私は何も言えなかった。言えるわけがなかった。私だってずっとそう思っていたから。
 いつの間にか、電灯は風景に馴染んでいた。

 夏休みに入って、私はより一層塾に通い詰めるようになった。受験生なんてきっと皆そんなもので、本屋に行けば参考書コーナーで同級生を見かけた。
 少しだけ夏を感じたくて、去年を思い出してみたりする。友達と手持ち花火をしたこととか、近くの夏祭りに行ったこととか。受験生になる前に夏を謳歌しようと言って、泳ぎもしないのにスイカ割りをするためだけに砂浜に行ったこともあった。今年はきっと何もないんだろう。
 そう思っていた矢先、一眞くんから連絡が来た。「明日花火あるんだって」と簡潔なメッセージ。これは誘ってくれているんだろうか。お誘いだと捉えたい。「行きたい」と返信する前にもう一言届いた。「明日六時、公園で」。
 夏休みが始まりしばらく経った今、彼が思い浮かべたのが私だったのかと思うと、これぐらいの我儘気にはならない。

 二人で会うことなんてこれまでいくらでもあったのに、場所や雰囲気が変わるだけでこんなに緊張するとは思わなかった。遠足前の小学生みたく興奮して全然眠れなかったことは、笑い話にできるほど恥ずかしくない話じゃない。一眞くんはきっと馬鹿にして笑う。呆れ顔でへえ、とだけ言うだろう。
 お気に入りのワンピースを着て今年買ったばかりのサンダルを履いて、公園までの道のりを行く。同じ方向に歩いている浴衣姿の女の子たちがキラキラと眩しい。髪の毛を上にまとめて簪を挿しているのは、同じ女から見ても綺麗だ。そうして束ねられるほどではない、肩にかかるくらいの長さの私は、耳にかけた髪をピンで固定するぐらいしかしていなかった。変に着飾りすぎてもおかしいし、きっとこの服装は正しいと思う。
 例の公園は私たちと同じように待ち合わせをする人で溢れていた。会場がここから十分ほど歩いたところにあるからだ。ここなら会場よりも人が少ないし、相手を見つけやすいから待ち合わせにうってつけなのだろう。

 一眞くんは公園に入ってすぐのところにある五〇センチぐらいの高さの石のオブジェに腰掛けていた。私が入って来たのに気付くと、立ち上がって軽く手を振った。
「花火見たいなあって、夏だし。小山と見たいなあって」
 こういうことを平気で言うから嫌だ。それに謎の優越感を抱く自分も嫌。
「小山は浴衣じゃないのなあ、ちょっと残念」
「塾サボって来たから。浴衣なんて着て出たらバレるよ」
「サボったんだ? そんなに花火見たかったんだなあ」
 ふと、一眞くんのゆっくりとした話し方が気になった。こんな風に喋るのは珍しい。よく見れば、無表情でその目はどこか遠くを見ているようだった。
「何かあったの?」
 ふっと私の方に目線をやると、一眞くんはしばらく固まったのちにしゃがみ込んだ。項垂れて、「ごめん」と。今日はひどく不安定な日らしい。
「嘘、嘘だよ。別に花火なんてどうだっていい。ただの口実」
「何かあったんだね?」
「くだらないよ、ほんっとうにくだらない」
「いいよ、何?」
 目線を合わせようとしゃがみ込むと、ワンピースの裾が地面に擦れた。サンダルにももう小石がいくつも入っていることに気付く。
「昨日、中学の同級生を見た。通り過ぎて行く時俺だけが気にしてたんだ。気付かれたくはなかったしそれでよかった。でも、駄目だ俺、やっぱり……」
 彼の言いたいことは予想できた。
「この二年間より、あの頃のことの方が自分の根本にあると思うと、何ていうか、泣けてくるよ」
 自分だけがいつまでも囚われているなんて苦しいに決まっている。あいつらに声をかけられたかったわけじゃなくて、変わったんだなと言われたかったわけでもなくて、自分の中にはこんなに残っていることなのに、きっとどうとも思っていないあいつらの存在が憎くて許せなくて、いつまでも許せない自分のことが情けなくて。マイナスな感情ばかり溢れるのももうやめられないんだろう。

 突然あたりが明るくなって、バアンッと大きな破裂音がした。気付けば公園内には私たち以外に誰もいなくて、今の爆音は花火の一発目が打ち上がった音だった。続けて、小さな音が何発も聞こえた。立ち上がって見上げると少し先の上空に大輪の花が咲いていた。この公園からでも見えることは知らなかった。
「すごいね、一眞くん……」
 隣を見ると彼も立ち上がって花火を見ていた。眼から流れた雫が一筋の線を描いて、花火の光で輝いていた。
「ここで十分」
 掠れた声で言う一眞くんの涙は花火なんかより何倍も綺麗で、無駄になってしまったおろし立てのワンピースのこともサンダルのことも忘れられた。

 夏休み中、一眞くんからの連絡は普段とは比べ物にならないほど届いた。「何してる」に「勉強」とだけ返す日もあれば、夜中に突然電話がかかってくることもあった。真夜中の寂しさにやられたのか、平静を装いながら「二時までな」、「三時まで」と私が切らないように粘って来た。
 今日は茹るような暑さだというのに昼間から呼び出されて、本当は塾があったけど、休暇中二度目の無断欠席を果たした。例の公園で、木陰に入る位置のベンチに腰を下ろして彼を待っていた。
 しばらくするとコンビニのビニール袋を片手に彼がやって来た。ほら、と手渡されたのはソーダ味のアイスバーだった。熱を持った体にアイスの冷たさが染み渡る。隣で彼は同じものを口にしていた。
 お互いに何も喋らないから、蝉の鳴き声ばかりが響いていた。じりじりとアスファルトの焼ける音がする。今朝見た熱中症による死者数が昨年より増えたとかいうニュースが頭の片隅に流れる。手元のアイスバーはあっという間に溶けて、食べきった今では、手からソーダの匂いがした。
 孤独感に耐えきれなくなったりまた中学の人に会ったり、一眞くんが連絡してくる時には何かしらの理由があったけど、今日はいつにもなく喋らない。切り出せないような話なんて今更あるんだろうかと思ってしまう。何か大切な話なら早くしてくれないと、このままここに居続けたら二人とも倒れかねないよ。

「あのさ」
 彼が話し始めたのは、お互いがアイスを食べ終わって五分くらい経った時のことだった。彼はいつものように、自分が未だに中学の頃の記憶に苦しんでいること、また彼らのうちの一人を見かけてその度に少しずつ絶望して行くことを話した。
 一周回って気持ちが良いほどの炎天下の中では全く似合わない内容で、少し笑えてしまった。もちろん、笑っていいような話じゃないけど。
「小山に会えてよかったよ」
 一眞くんは唐突にそう言うと屈託無く笑った。普段あまりしないその笑顔と突然発された私がいつも求めている言葉に、何だか泣けてきた。
「出会ってなかったらって考えると恐ろしくてしょうがない」
「……そんなに?」
「そんなに」
 欲しかった言葉の連続に思わず息が詰まった。的確についてくる今日は一体何なのだろう。ぼーっとし始めた頭で必死に考える。
 同じ嬉しいを相手に返せるような言葉を探す。
「私もだよ、会えてよかった。一眞くんのそばにいると息ができるよ、もうそこにいてくれるだけでいいなって。私、この人と出会うためにこれまで生きづらかったんだとすら思える」
 突然まくし立てる私に一眞くんがストップをかけた。待って、どうしたの、と顔を覗き込んでくる。
「うわ、顔真っ赤。大丈夫? これ、涼しいところ行った方がいいな……」
 立ち上がろうとする彼の服の裾を掴んだ。もう少し、こんな風に意識が曖昧になっている状態で彼に伝えたいことがあった。
「確証欲しいね、私も欲しいよ。必要とされたくてたまんない。でも、」
「なあ、もう、移動しよう。体冷やした方がいいよ。冷たいもの飲んでさ、横になった方が」
「私じゃ駄目かな」
 何故か弱くなっていた涙腺が呆気なく崩壊して、ボロボロと涙が落ちてきた。さっきまであたふたしていた一眞くんの動きは止まっていた。
 もうこの際構うもんかと思った。決して我慢してきたわけではなくて、勝手に言わずにいただけだ。何でも話してくれる彼とは違って全然話せない私の、これはきっと重い話だ。
「弱いって思われても、私は誰かがそばにいてくれなきゃ生きていけない。誰かって、一眞くんがいい。無理だってわかっていても、このまま消えなくて壊れなくて無くならないような形で、君との関係を保ち続けていたい。一眞くんがここにいる意味を私にして欲しい。ここにいていいって確証なら私があげるよ。ねえ」
 一眞くんは俯いていた。表情が読めない。きつく握り締めた右手が震えているのだけ見えた。
「私じゃ駄目かな」
 顔を上げてよ。

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