心臓を手術してきました

お久しぶりです。
ステイゴールドです。

この度、タイトルの通り、心臓を手術してきたのです。
緊急入院した翌日には手術という慌ただしい出来事であり、ごく一部の方々にはご心配をお掛けしたかと思います。

この一週間程、どんなことがあったのかを、以下に振り返ってみます。

12月14日(木)

朝起きて、いつものように血圧を測る。
昨年に高血圧で入院して以降、毎日朝と晩に血圧を計測するのが日課になっている。
すると、こんな計測結果が出た。

血圧 上76 下55 
脈拍 142

『おや?どうした?』

と思った。
普段、降圧剤を服用した状態では、

血圧 上110~130 下70~100
脈拍 70~90

で推移するのが常だったからだ。
前日夜といきなり異なる傾向の血圧と脈拍に疑問を感じつつも、体調には何ら問題なかったので、普段のように朝から食糧の買い出しに行き、在宅勤務を始めた。

昼食を食べ、午後の仕事に取りかかろうとすると、どういうわけか起きているのがしんどい。
横になっていれば楽になるのだが、そこから起き上がろうとすると、目の前が市松模様のように黒いブロックが点々と並んで視界が悪くなる。

この時点で、自分の体に何かが起こっているのは感じていたが、一過性のものではないかと思い、明日もこんな状態が続くようなら病院に行こうと心に留めておいた。

その後、何とか体を起こして夕食を作ろうと立ち上がった次の瞬間、一瞬記憶が途切れ、受け身も取れずにスッ転んでいた。
こんな転び方をしたのは生まれて初めてのことだった。

『あー、こりゃ病院行っとかないとマズいな』

その思いを強くしつつ、慎重に立ち上がり、夕食を作り、床についた。
寝る前に計測した血圧と脈拍は、朝とほぼ同様であった。

12月15日(金)

いつものように目が覚める。
慎重に体を起こしたが、特に視界に変化はなかった。この点については、昨日より状態は良くなっていた。
しかし、血圧を測ると、

血圧 上73 下58 
脈拍 161

相変わらず血圧が低く、脈拍はさらに速くなっていた。

仕事先に午前休の連絡を入れ、近所の病院に向かう。
高血圧のときも最初に行った町医者である。

心電図を取ってもらったあと、医師の対応が一変した。 

「波形がちょっと良くなくて、心臓の動きが速すぎるので、これを押さえる必要があります。
 ここだと処置が出来ないので、近くの処置が可能な大きい病院を紹介しますね。
 今から救急車を呼ぶので。」

『あら、救急車が来るの?』

思ったより大事になってしまった。
この時点では、血圧と脈拍の数値が普段と違うくらいで、体調については普段とさほど変わりないと思っていたからだ。

十数分後、救急車が到着する。
救急隊員が用意したストレッチャーに乗せられ、サイレンを鳴らしながら物々しく運ばれていく。
逼迫した様子の隊員から矢継早の質問に答える自分は、いたって冷静で平穏であった。

大型病院に到着するやいなや、ストレッチャーに乗せられたまま救急入口から搬入され、あっという間に身ぐるみを剥がされ、応急処置の薬を注射と点滴を刺される。
これで、速かった脈拍は90~120で推移するようになった。

「よーし、止まった」

救急外来の対応にあたった医師や看護師が一段落ついた様子だったのも束の間、自分の体はすぐに集中治療室に運ばれた。

集中治療室はドラマや映画で見るようなものではなく、大きい空間に明かりが煌々と光り、両端にストレッチャーに乗った患者がズラリと並び、中央に医師と看護師が忙しなく動き続けていた。

自分の体には心電図の計測装置が着けられ、モニターで心拍数などいくつかの数値がリアルタイムで表示されるようになった。
心拍数が120を超えた状態が数秒続くとアラームが鳴り、医師と看護師が集まってきてしまう。
なので、とにかくじっとして、心を落ち着けて過ごすことにした。ちょっとでも手をわずらわせたくなかったからだ。
手元にスマホはあったので、仕事先には入院することになり、しばらくお休みをいただく旨を伝えた。

しかし、それでも幾度となく心拍数が上がってしまう。
尿瓶に小便をしようと少し気張っただけでアラームが鳴り、小便すらまともに行えない。
その結果、点滴の量を増やすため、首に点滴が移動した。
そして、尿道にカテーテルが差し込まれた。

こうして、私は体に必要なものを管から吸収して管から排泄を行うようになり、ひとりの人間から生命を維持するだけの装置となった。

辛うじてスマホは操作できたため、現状報告は随時Threadsにて行うようにした。
いきなりXに現状報告すると、インパクトばかりが大きくなるのを懸念して、影響の小さいThreadsを使うことにしたのである。

物々しく、慌ただしく変化する状況の中であっても、

『こんな大事になってしまって、たくさんの人を動かしてしまって申し訳ないな。』

という思いが先に出て、ちょっとでも騒ぎにならないように配慮したかったのだ。

12月16日(土)

未明、また心拍数が180前後から下がらなくなってしまった。いつの間にか、この症状は発作として扱われるようになっていた。
救急搬送時や、集中治療実に入ってから生じた発作の際に効いていた薬を注射したが、それでも下がりきらない。
この時、周りの緊張感が明らかに高くなった。

「これから電気ショックしますからね」

そう医師に言われながら、自分の胸を中心に様々な器具が着けられていく。
電気ショックによって心臓に刺激を与え、速すぎる心拍数を押さえるためのようだ。
おそらく、最も緊迫していた時間だった。

ただ、朝から自覚症状が全くないままこの状況を迎えている自分にとっては、

『ああ、また大事になってしまった』

と、自分の都合で大きくなる騒ぎに申し訳なさを感じながら、淡々と事の成り行きを見つめているだけだった。

「じゃあ、電気ショック行きまーす!」

ここで記憶はぷっつりと途絶えている。


目が覚めると、6時間が過ぎていた。
電気ショックによって発作は収まり、鎮静剤によってぐっすりと眠りについていたらしい。

その後、すぐに医師からこう伝えられた。

「カテーテルアブレーションの治療を今日行います。   
 当初は週明けに行う予定でしたが、昨日の発作を見ると危険な状態と判断したので、予定を早めます」

カテーテルアブレーションとは、心臓の異常をきたした患部に対し、カテーテルの先端の電極から高周波電流を流して、患部を焼ききる治療方法のこと。
要はカテーテル手術なのだが、どういうわけか医師は一度も手術という単語を使ってくれなかった。
でも、ネットにもカテーテルアブレーションを手術として紹介してるページもあったし、テレビで先進医療としてカテーテル手術を紹介してる番組を観たことがあるから、手術でいいだろうと思って報告しておいた。

なんというか、緊張感がない。
この期に及んで、細かすぎて伝わらないモノマネの動向(特に都トム)が気になってしょうがなかったからだ。

というわけで、いきなり手術を迎えることになった。
患部の切開が必要ないカテーテル手術は体への負担が少ないことを知っていたので、手術に対する不安は全くなかった。

それでも、万一の事態に備えて、現在予約していたライブやエントリーしていた大喜利会のうち、自分でキャンセルの都合がつくものはキャンセルしていった。
一部のイベントについては主催宛にDMを送り、もしXが動かなくなったら現在のエントリーを削除して欲しい旨を連絡しておいた。
さすがにキャンセルするには惜しい大会が、年明けから目白押しだったからだ。

家族の同意も必要となるため、母親が病院に呼び出されることになった。
35歳にもなって、親より近しい親族がいない現実と向き合わされた。

昼12時過ぎ、手術室に運び込まれた。
まず、足の付け根に小さな穴が3箇所開けられ、そこからカテーテルが血管に挿入される。
手術は意識がはっきりした状態のまま行われたため、体の中をカテーテルが腰の辺りから上がってくる感覚がつぶさに感じられた。

カテーテルをどのように操作しているかは見えなかったが、まず患部の位置と範囲の確認をカメラで黙視しているようだった。

その後、

「35ワット行きます」

の合図とともに、カテーテルの電極から高周波電流が流される。
1回の電流は15秒から20秒程度。
これを、患部をすべて焼ききるまで行われるため、場所を変えながら数十回と繰り返された。

よく、《胸が焼けるように熱い》という表現があるが、本当に胸を焼いている熱さというのは、瞬間的な痛みよりも、鈍痛が持続的にスケールアップしていくような感じだ。

『んぎぎぎぎぎぎぎ・・・!!!』

歯を食い縛りながら耐えた。
患部の中でも痛さには若干のブレがあり、最初から痛みが強い箇所はそこからさらに痛みが増していくため、本当にしんどかった。

ただ、想像を絶する痛みだったかといえばそんなことはなく、切開や縫合を行ったカテーテルの出入り口や、尿道カテーテルの入った股間をぞんざいに扱われたときも痛くて、これが一番しんどかったとは言いきれなかったからだ。

およそ4時間をかけて、手術が終了した。
手術室から出たところに母親がおり、医師がわざわざ顔をみてもらおうと呼んできたのである。

『すいませんね、こんなご足労かけて』

「てっきり眠ってるもんだと思ってたら、起きてたのね」

親子の会話はつつがなく終わった。

「え、もうよろしいですか?」

医師にそう言われてもなお、特に会話を重ねることはなかった。
私だけでなく、母もまた、この状況を慌てる様子は全くなく、最低限の会話で済ませておこうという意思だけが一致していた。

手術を終え、集中治療室に戻り、8時間の絶対安静が命じられた。
絶対安静だから、全くもって身動きが取れないのだから、さっさと眠って時間が過ぎるのを待とうと考えた。しかし、集中治療室という場所は、

・煌々と光り続ける照明
・絶えず鳴り続ける機械のアラーム
・周りの患者のうめき声
・どこか吐いてるようにも聞こえるノズルでのうがいの音

があちらこちらからひっきりなしに聞こえてくるため、寝るには全く向いていない環境だった。

うとうとしては何かの音に起こされ、身動きを取るだけの気力もないまま、遅々として進まない時間にやきもきする。
そんな退屈の地獄が始まっていった。

12月17日(日)

未明の1時頃、絶対安静の必要があった8時間を経過した。
しかし、21時に消灯(といっても明かりが若干落とされただけで、様々な機械や患者の音は絶えず響き続けている)し、6時に点灯するまで、結局できることはなにもない。

暇過ぎて、とにかく何かをしたい衝動に駆られる。
点滴が刺さっている右腕や、手術用のカテーテルを挿入した右足を少し動かしてみる。
左腕や左足はその前からもっと動かしている。

そんなことをしても、せいぜい20秒過ぎれば良い方で、たまに通りかかる看護師に時刻を訪ねては、時間が全くといっていいほど過ぎていかない現実を突きつけられる。

もう嫌だ。
何かがしたい。
娯楽に触れたい。
テレビを見たい。

そして、朝6時を過ぎ、集中治療室には再び明かりが灯った。

意を決して、テレビが備え付けられた台を動かし、藁にもすがる思いでテレビをつけた。

「はやく起きた朝は・・・」が映っていた。 

普段から観ている番組ではない。
だが、もう何十年と同じフォーマットで続いている番組が、いつもと同じように放送されている。

それを観るだけで、自分が生命を維持する装置から、ひとりの人間に戻ったように感じた。
メディアが大好きで、テレビをメディアの最上位と信じて疑わない昭和生まれにとって、自意識を取り戻すキーアイテムが、テレビだったのである。

そこから、いつも観ている番組や、観ていない番組までひたすらテレビにかじりついた。

ボクらの時代
日曜報道 THE PRIME
サンデーモーニング
サンデージャポン
アッコにおまかせ!
BSイレブン競馬中継
みんなのKEIBA
笑点
TVチャンピオン3

もうひたすらテレビを観ていた。
エンターテイメントに触れられなかった数日間のエネルギーが爆発していた。

合間にスマホの充電器を買ってきてもらい、ようやく残量を気にせず使えるようになった。
入院してからというもの、断片的に触れてはThreadsで短い報告をするばかりで、Xについては全く触れていなかった。
いつの間にか、Xの方にも状況が伝わっていたようで、心配いただいているポストもチラホラ見かけた(ありがとうございます)。
というわけで、3日ぶりにXにポストした。

たぶん、この言葉を聞きたかった人は居なかっただろうな。
そもそも余計な心配をかけないために何も言ってなかったんだし。
そして、そんな自主規制を取っ払ってしまうくらい、シュトラウスの将来性をも台無しにしたマーカンドの騎乗はあまりにも酷かった。

夜からは食事も摂れるようになっていった。
伊集院さんがリアルタイムでの視聴を力説していたTVチャンピオン3の手先が器用選手権を観ながら飯にありつく。

この時、久しぶりに心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。いつ5円玉が崩れ、ドミノ倒しになってしまうかをハラハラしながら観ていた。
ただ、鼓動の高鳴りに対し、心拍数はまるで上がることはなく、結末まで問題なく見届けることができた。
心理的な緊張感と、心拍数という指標に置いて、心臓の鼓動は一致しないものであるらしい。

テレビは楽しく、娯楽のある人生は素晴らしいと改めて知った1日だった。

12月18日(月)

術後の経過が良かったことから、一般病棟へ移動する胸が告げられた。
これに合わせて、首と腕の点滴、尿道のカテーテルが抜かれることになった。

尿道のカテーテルを抜く瞬間が最も痛かった。
心臓を焼いてる時間よりも瞬間的な衝撃は上回っていたと断言する。
あれはもう二度と体験したくないし、尿道に物を入れる性癖に共鳴することは金輪際ないと思った。

ショックのあまり、放心状態になりながら、しばし周りの様子を見つめていた。
体に様々な器具を装着し、はっきりとした意識があるのかもわからないような状態でありながら、生と死の淵で懸命にこらえる患者が何人もいる。
みんな大変なんだなと思う傍ら、この領域まで自分も足を突っ込んでいたのだと、ようやく自覚するに至った。

午後から一般病棟に移動し、簡易的な心電図の計測装置を身につけて、ベッドの上で安静に過ごす。
点滴がなくなった分、食事は1日3食摂れるようになり、トイレには自分の足で歩いて行くことが許可された。
集中治療室と異なり、一般病棟のテレビは有料だったため、Tverでの配信視聴や、radikoでのラジオ聴取が以後の生活の中心になっていった。

12月19日(火)~12月21日(木)

基本的には、一般病棟の大部屋にて、自分のベッドの上で過ごす。
見逃していたテレビを観て、聞き逃していたラジオを聴く。
いつもの生活に、少しずつ戻っていった。

時折、検査に呼ばれたときは車椅子に乗って案内してもらう以外はフロア外に出られない。
ただ、フロア内であれば歩行が許可されたので、ぶらぶらと廊下やロビーまでの散歩を散発的に行う。
そこで、ロビーにwifiがあったので、これ幸いと繋げてみる。若干弱いが致し方ない。

大部屋は自分以外は高齢者ばかりで、患者同士で会話をすることは全くない。
救急病院としての面が強く、入院を長引かせない方針のため、牢名主のような存在がいないからだ。

基本的にはみんな静かなのだが、火曜の午後に入室してきた、物分かりの非常に悪いジジイが、トラブルメーカーの名を欲しいままにしていた。
自分の体に装着された医療器具を外せと看護師を怒鳴り付け、要求が通らないと罵声を浴びせる。
ナースコールの使い方がわからないのか、「すいませーん!!」と連呼して看護師を呼びつけ、ベッドの柵を幾度も殴り付け、蹴り飛ばす。
これが昼夜問わず起こるため、迷惑この上ない。

他にも夜通し咳き込みが収まらない爺さんや、いきなりウンコを垂れ流す爺さんも居て、ここでの生活にもすっかり辟易としてきた。
ウンコのジジイは消灯時間後もひっきりなしに唸り声をあげ続けたせいで、まともに寝ることができなかった。
あまりにも眠れなくて、病室からロビーに逃げ出して休憩したのが深夜4時頃のことだった。

早くここから出たい。家に帰りたい。何より風呂に入りたい。
入院してからというもの、一度も風呂に入れていない。せいぜい、タオルで体を拭いているだけで、頭と顔の皮膚はすっかりボロボロになってしまった。

生命を維持する装置から人間に戻ったときの変化は過ぎ去り、文化的な生活を求める現代人としての欲求が高まっていくのであった。

12月22日(金)

朝に最後の検査として採血を行い、朝食を取ってから身支度を整える。

やっと退院だ。

1週間前、ここに救急車で運び込まれることなど、誰が予想しただろうか。

入院前から今日に至るまで、動悸を感じることは一度たりともなかった。
血圧の測定で脈拍が早くなっていると知らなければ、きっと気づくことはなかっただろう。
遅きに失した高血圧の反省から、早めに病院にかかったのは正解だった反面、きっと高血圧の負荷が心臓にかかったことで、悪い細胞が作り出される遠因になったのではとも勘ぐってしまう。

とはいえ、病院に行ってなければ自宅で突然死を迎えていた可能性は少なくなかったのだから、ラッキーだったと感じたい。
また、入院した日の夜の発作がなければ、手術はもう数日後だったはずで、そのスケジュール通りに動いていた場合、M-1グランプリを家で観ることはは叶わなかっただろう。

今日で退院できたことは、時に死線に触れながらも、幸運が積み重なった結果であり、関係各位に感謝しなければならない。

ボケルバのM-1大喜利杯をキャンセルしたことだけは愚策だったなぁ・・・。


というわけで、この一週間程をざっと振り返ってみました。
退院したからにはまず家に帰って、お風呂に入りたいと思います。
溜まりに溜まった頭のフケを、シャンプーでしっかり洗い流してきます。

驚くほど以前と変わらぬまま、日常に戻ってきました。
なので、これといって変わりはありませんが、皆様またよろしくお願いいたします。

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