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そこそこ同情される実家の歴史

私が生まれた時住んでいた家は借家だった。

丸ごと一軒ではなく1Fに大家さん家族が住み2Fが半分に分割されて我が家ともう一家族いたらしい。

住み始めた時は夫婦2人だった両親も子供が2人生まれ4人家族になり手狭になったことからマイホームを購入。

1Fにはリビングダイニングキッチンが一部屋と客間が一部屋。

2Fは洋室2部屋と和室が2部屋。

洋室1部屋は物置になっていて母のミシンなどが置いてあった。

もう一つの洋室は姉妹の勉強部屋。

和室は両親の寝室と私たちの寝室。

姉妹が大きくなったらそれぞれ1部屋ずつの個室にするというプランだったらしい。

駅からバスに乗って峠を越えたところにある山の中の新興住宅地。

幼稚園と小学校が住宅地内にあり小学校が1学年4クラスあったので結構な規模の巨大住宅地だったのだと思う。

当時中学校はまだなく「チュウガッコウヨテイチ」と私たちが呼んでいただだっ広い敷地が小学校の隣に広がっていた。

私の家は山の斜面に出来た住宅地の一番高い場所に山の方を向いて建っており家の裏手から住宅地を一望することが出来た。

住宅地の向こうには田んぼが広がっていてその向こうには山。

本当に見渡す限り何もない田舎の風景。

大人になってから母にどうしてあんな不便な地に家を買ったのか尋ねたことがある。

「お父さんが勝手に買って来たのよ」

勝手に家を買って来た!?

私は父親と10歳で死別しているので父親がどんな人か覚えていないがなかなかに俺様な人だったようだ。

自然豊かな環境で私は幼少期を過ごした。

後に国体がありこの住宅地の近くに大きな幹線道路が出来た。

大人になってから何度か訪れたことがあるが私の記憶とは程遠い都会になっていた。

母は当時から教育者で父親が亡くなった後子供2人を抱えて独りでやっていくのは大変だということで母方の祖父母と同居することになった。

私は小6の春住み慣れた田舎を離れてそこそこ都会に引っ越した。

新しい土地は私が生まれ育った県から400kmも離れていた。

言葉も全く違い方言が強かった私は何を言っているのか同級生に分かってももらえない。

このことでそれまでそこそこ活発だった私は相当内向的な性格に変わってしまった。

小6と言えば修学旅行。

入って2ヶ月で全く通じない言語の人たちと一緒に一泊旅行。

なぜ私が中学に進学するタイミングにしてくれなかったのか。

この件については母を今でも若干恨んでいる。

一応学年が変わる春に合わせたこととあまりにも離れすぎていて土地探しが出来なかったことから当初は公団に住み土地を探して家を建てて同居することになっていた。

土地探しに結構苦戦したらしく公団には1年半住んでいた。

私は1年間だけ通った小学校を卒業し中学生になった。

中1の秋にマイホームが完成し引っ越した。

学区外。また転校。2学期の間はバスで元の中学に通い3学期から新しい中学校に通うことになった。

やっと少しずつ打ち解けて友達も出来始めた頃だったのに私は引っ掻き回されてばかりだ。

新しい家は建築家の伯父が設計してくれた。

伯父夫婦には子供がいなかったので年頃の子供がどんなものなのか想像がつかなかったのだろう。

母が提案した図面の時点では姉妹にそれぞれ個室が用意されていたのに一緒に暮らせるのは子供時代だけという謎の理由で出来上がった家の私たちの部屋は6畳2間の個室から12畳1間の同室に変わっていた。

1Fにリビングダイニングと独立したキッチンと祖父母の部屋。

母も祖母も料理が得意だったので独立キッチンはリビングが汚れないようにとのことだったらしい。

孤独な調理。料理の苦手な私には絶対無理な間取りだ。

2Fは祖父母の納戸と私たち姉妹の部屋と母の寝室と客間。

そしてこの家には3Fがあった。

とは言っても梯子段で昇る屋根裏部屋だったが。

私は屋根裏部屋での暮らしを夢見てワクワクしたが実際屋根裏は暑くてとてもじゃないが部屋としての機能は果たさないということもこの家で学んだ。

屋根裏は物置と化したが物を持って上がるにも持って降りるにも梯子段を使わなければいけないため非常に危険。

引っ越した当時に私たち姉妹の使わなくなった物や祖父母が捨てきれなかった思い出の品などを業者に入れてもらって以来屋根裏部屋が活用されることはついになかった。

祖父母との暮らしは私が思い描いていたのとは全く違った。

それまで会うのは夏と冬の2回だけ。

行けば歓迎してくれる優しいおじいちゃんおばあちゃんだったのに一緒に暮らし始めた途端厳格な大人が家の中に3人も!

祖父母にしてみれば若くして夫に先立たれた可哀想な娘の子を私たちが協力して立派に育てなければという気持ちだったのだと思うが一家に同一価値観の大人は3人も要らない。

私と母が衝突するたびに母の肩を持つ祖父母。

私は心底落胆し家庭で心を開くことは一切なくなった。

同時に妹。

引っ越し当初は私が中学生妹が小学生でまだよかった。

私が高校生になると妹は中学生。

何かと年上の真似をしたい年頃だ。

同室だったのが災いして私の持ち物はことごとく妹に奪い取られた。

中学校の方が近いし終わるのも早いのでどう頑張っても妹の方が先に帰宅する。

私の服やバッグから挙句の果てには新品の下着まで根こそぎ妹に持って行かれる毎日。

やられたらやりかえすとはいっても妹の持ち物は中学生の物。

…要らない。使わないよ。

何度も母に訴えたが兄弟げんかは自分たちで解決しろと介入してはもらえなかった。

部屋を分けて欲しいと頼んだけれどそれぞれにクローゼットがついていたので今更ドアをつける壁面が取れない。

妹に出て行けと訴えるも「嫌ならお姉ちゃんが出て行けば?」と。

そりゃ妹は何も困っていないからそうなるだろう。

結局妹はクローゼットが2つもついた12畳の洋室子供部屋を勝ち取り私は押入れが1つついた6畳の和室客間に移動した。

なんだろう。ものすごい不公平感。

私のひねくれた攻撃的で被害妄想の強い性格はこの辺りで形成されたものと思われる。

その後私が独立し祖父が亡くなり妹が独立して祖母が亡くなった。

母はあのだだっ広いマイホームに今でも独りで住んでいる。

尤もしょっちゅう近居の妹が入り浸り母の手料理を楽しんだり母が使い切れない色んなものをもらったりしているようだ。

その代り母の体調がすぐれない時でも妹はすぐ駆けつけてくれるし私よりもだいぶ実家にいた時間が長かった妹が色々段取りをしてくれてその面では非常に助かっている。

母と妹は今のように近い距離で仲良くしそこを遠巻きに私が眺めて少しだけ応援するというスタイルが我が家の歴史では最適のようだ。



私の経験や考え方が少しでもお役に立てたなら嬉しいです(◍•ᴗ•◍)