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白はすべての色

 白い本だな、と思いました。装丁だけでなく、中身もどこまでも白いと感じながら読んでいました。そんな本。白は彼女の作品のイメージに合う。というより、ほかの色が考えられない。そもそも彼女の作品は、ほとんど真っ白なのでした。
 この本を手に取る人のほとんどは、内藤礼の作品を知っているだろうし、きっと内藤礼の作品を好きな人だろう。私もそうです。彼女の作品を知っていれば、彼女の作品を自分なりに理解して見てきた人なら、この本に綴られた言葉は違和感なく読むことができるだろう、と思います。とはいえ、彼女のアートと同様に、目を凝らし、耳を澄ませ、自分の感度を極限まで上げて、全身で受け取ろうとするあの感じ。あの集中力を要求するので、それなりにエネルギーを使います。

 たいていのアーティストを知るときは、作品を見て気になって、その作者を知るという順番なのですが、私は作品よりも先に彼女が話すのを見ました。ある写真家の個展にともなって行われた、トークイベントの対談相手として。はきはきと喋る写真家に対して、ひとつずつ、じっくりと考え、時間をかけて言葉を選び、口にする姿が、とても印象的でした。
 彼女の内側には、表現すべき「それ」があって、彼女は「それ」にとって最も適切な方法を考え、選び、「それ」を表現する。表現が、美術館に展示される作品であろうと、文章であろうと、同じことで、彼女は彼女自身が感じる、彼女自身には見えている「それ」を、この世に実在させようとして表現するのだろう、と思って見ています。だから、彼女のアートもこの本も、同じ平面上にある。
 彼女が表現しようとする「それ」は、わかりやすくひとことで言い表せるものではなくて、だからこそ、彼女の作品が必要になるわけだけれども、たぶん、多くのひとが抱えていたり、感じていたり、欲していたり、それを自分の目で確かめてみたいと思っているようなものなのではないか。だから多くの人が彼女の作品に惹かれるのだろうと思うのです。私はそうです。ある種の「救い」のようなものを求めて、人が集まってくるように感じます。

 内藤礼のアートを知らない人にとって、この本はどんなものになるのだろう、と読んでいてふと思いました。文章は、わかりやすいとは言えない。詩のようだし、つかみどころがないかもしれない。いったい、どう評価されてしまうのだろう。
 私だったら、中学生か高校生の私に、図書館で偶然見つけてほしい本だなと思いつきました。白に銀の箔押しの背は、とても目立つと思う。本棚でそこだけ光って見えるのではなかろうか。よくわからないなりに、最後まで読み終えて、なんとなく心に残ったままになると思う。そのあとで、アートの方を知る機会があって、ああ、あの本がそうだったのか、と答え合わせになる……。たぶんこの本は、内藤礼のアートを知っている人を読者に想定して作られていると思います。でも、そういう出会いが十代の自分にあれば良かったのにとすら妄想しました。なんとなく惹かれて手にとって、理解しきれないまま深く心に残る、白い本。

 なぜ白なのか。彼女の生み出す白は、無機質にはならない。白は、無色透明と同一視されることがあるけれど、無色透明ではありません。光はそれぞれの波長ごとに色を持ち、白は、すべての波長の成分をふくむ光です。つまり、白はすべての色をふくんでいる。科学的に言えば、そう。
 東京都庭園美術館での展覧会で、color beginning という作品を初めて見たとき、白のなかから生み出されるものを、「それ」がこの世に現れる瞬間を、すくいとろうとする気の遠くなるいとなみを見ているように感じて、目眩のようなものを感じました。この本の最後のページまで読み終えたとき、庭園美術館の新しい展示室で、途方に暮れたように作品を眺めつづけたあの時間を思い出します。そして、なぜこの装丁なのかを知って、それは最も相応しいものを選んだのだとわかるのです。

内藤礼「空を見てよかった」新潮社


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