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「川内倫子 M/E ―球体の上 無限の連なり」

「川内倫子 M/E 球体の上 無限の連なり」
2023年1月21日(土)〜 3月26日(日)
「川内倫子と滋賀」
2023年1月11日(水)〜 5月7日(土)
滋賀県立美術館


 写真とは、光を記録することなんだな、と、あたりまえのことをぼんやり思い出したりしていた。川内倫子の作品を見るのはとても久しぶり。懐かしく、もう一度見たかった作品もあった。新しく初めて見る作品も良かった。

 彼女の作品にいつ出会ったのか、そういえば覚えていない。大学院生の頃、ケータイカメラで撮られた写真とともに綴られる「りんこ日記」を楽しみにしていた記憶があるから、もう20年くらいは昔になるのだろうか。でもここ何年も遠ざかっていた。「出産」「育児」をキーワードにされると、私には途端に受け付けられなくなるので。名前を見かけるたびに、本のページを閉じるように、意識をとざしていた。
 そのままそれなりの時間が経った頃、いつも付けているFMから唐突に彼女の名前が聞こえてきた。地元なので、展覧会のCMが頻繁に入るのだった。(もしかしたら、もうそろそろ、見に行っても大丈夫なのではなかろうか。)私も少し年をとったし、前ほど心を揺らされることもなくなった気がする。不安は残るけれど、行ってみようという気持ちが勝ったので、週末に出かけることにした。

 こうしてあらためて、大量の作品を一度にみると、彼女の写真はおどろくほど一貫している、と思った。正方形のフォーマットは途中からそのリミッターを外したし、デジタルを取り入れることもあったり、大きな大きなカメラを使ったり、手法はさまざまに展開するけれど、被写体もさまざまなのだけれど、記録された光景は一貫しているのだった。それはたぶん、撮り手の眼差しそのものだから。それは私が私の事情で遠ざかっていたあいだも変わることはない。
 たぶん当然のことなのだろうけれど、私にはとても安心することだった。(これでもう、避けなくてもいい。なんの引っ掛かりもなく、好きなものを好きと思える状態に戻れる。)

 彼女が記録しつづける光は、この世界に生きることを肯定するために、肯定していいものだと諭すように、感じられることがある。死ですら、世界の循環の一部として含まれ、肯定される。ある意味、私はそれによってゆるされている。(ふと、内藤礼の展示を見るときの感覚と近いかもしれないと思った。それこそが、私が彼女の写真を好きでいたい理由なのかもしれない。)
 そうした抽象的な感覚とは別に、今回あらためて気づいたのは、彼女の記録する家族の光景は、私は知識として知っているだけで、実体としてはまったく知らない世界なんだなということだった。祖父母の住む家に、家族一同が集まって、食卓を囲む。知識としては知っている。でもずいぶん遠い。どうして今まで気づかなかったんだろう。たぶん、抽象化して受け止めることは十分可能なので、なんら問題はなかったのだった。

 私の中の寂しさ、いつも私の中にある、自分が世界からはみ出してしまったあの感じに、すんなり馴染む感覚だった。それはプラスでもマイナスでもなく、ごく自然に私の中に存在する。ああそうだったと、自分の内側を確かめるような時間だった。


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