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「誰一人取り残さない」という公務員の信念を、人間を思考停止に陥らせる道具にしてはいけない

2021/2/27

【No one left behind を教育機関で翳す害悪】


「誰一人取り残さない」とは…

最近よく聞く言葉に、「誰一人取り残さない」というものがある。SDGsやESD関連で、よく語られる文句だが、この言葉に僕は違和感を覚えてならない。

僕は差別をする人間ではないので、「誰かが社会で取り残されてしまう」状況を推し進めたいわけではない。しかし、この標語はある種マクロの世界でぼんやりとした「意識」として語られるべき言葉だと思うことがある。

まずもって、「誰一人取り残さない」というのは、公的な機関に勤める全ての者が「意識」し、念頭に置き続けなければいけない概念だ。首相は声高らかに「誰一人取り残さない社会に!」と叫ぶべきだし、教員だって「誰一人取り残さないように」と工夫して全ての生徒と正面から向き合い続けるべきだ。それは不特定多数の市民の血税を自らの飯の種にしてる人間は意識して然るべきだろう。(勿論中国みたいな国は例外)

だが、そんなの至極当然の義理人情と公務員の責任の話以上のなにものでもない。

それをなんだ、教員が未来をまだ自由選択できるはずの生徒に対して、「誰一人取り残さないのが大事です」と教えたり、その正義感を暗に示すのは、一体全体必要なことなのだろうか?

「ダイバーシティ」とは共存しない

「No one left behind」という概念には、この社会には「前を行く者」と「後ろを行く者」がいるという前提が無自覚のうちに入れこまれている。具体的な言い方に変えれば、「この社会で活躍できる者」と「この社会で活躍できない者」がいる、だったり、「機会に恵まれた者」と「機会に恵まれない者」がいる、だったり、色んな言い方ができる。その全てに、「優」と「劣」が存在している。

この前提は、「ダイバーシティの尊重」と両立し得ないと言えよう。本当にダイバーシティを尊重する者は、「優」とか「劣」を極限まで吹き飛ばす者のことだと思うからだ。

望まないで不当に扱われる人間は「劣」であり、たいしてなにも傷つかずに生きていける者は「優」だとする前提が、この概念にはどうしても存在するのだ。

「優劣」を無意識のうちに受け入れてる人は、どう頑張っても「優劣」という考えそのものを消す方向へは動けない。

つまり、この概念を信じ続ける限り、人としての本質的な進歩はないと言えるだろう。

それはつまり、括弧づきの「優しい」を手にして満足してしまうという空虚な話でもある。そんな空虚な正義感を生徒に教え込む教員は、何を期待しているのだろうか?僕には安直な正義感と自己肯定しか想像ができない。

「みんなちがってみんないい」の方がよっぽど必要な教えではないか。

「持続可能な社会」とは共存しない

では、なぜ、誰も取り残しちゃいけないのだろうか?という根本的な問を呈したい。

まず、この概念と一緒に語られることの多い概念の一つに、「持続可能な社会」と定義されたものがある。

「持続可能な社会」を創らなければならないというのは全世界の共通認識としてあるのに対して、「誰一人取り残さない」はSDGs的なヨーロッパ発祥の概念だとされている。

感情的に今の危機的環境状況(マジョリティとマイノリティの対立や格差や差別など)を捉えると、その反動で、大きく「誰も取り残しちゃダメだ!」と返ってることは容易に想像できる。

そして次の瞬間「持続可能な社会=誰も取り残さない社会」と認識し始めてしまう。これはESD実践者にも多く見られる傾向なのだろうが、この「=」にまず疑いを持つべきだ。

無論、「持続可能な社会」をみんなで創りたいなら、その邪魔になる生物には死んでもらう必要がある。しかし、その瞬間に「誰一人取り残さない」は不可能となる。この2つは両立不可能であると言えてしまう。

だがそもそも、「誰一人取り残さない」は、「社会の状態」ではなく、進化の過程で公に生きるものがすべき「意識」にすぎない。ここを混同したらただの「感情論」になってしまう。

だのに、これを叫ぶ人間の大半はここを混同している。なぜなら先程も述べたように、この概念の由来がそもそも「感情論」だからだ。

では、「感情的」になってもこの概念は崩れないのだろうか?

「感情的」「情熱的」とは共存しない

これは容易に納得出来ることだが、人と人は生半可な馴れ合いでは本当の「つながり」や「絆」は生まれない。昨日の一家団欒でも「ヤクザの家族観」の話が出たが、まさにそこでもあったように、本気で人と人がぶつかり合うからこそ、人と人の本当の絆は生まれる。

しかし、「誰一人取り残さない」を掲げる人間同士は、本気でぶつかり合えるのだろうか?僕はムリだと思っている。だって、本気でぶつかれば、リタイアする者が生まれるからだ。「あ、これはなんか違うな」と思ってドロップアウトする者も出てくるし、能力差によってドロップアウトする者も出てくる。それは、「誰一人取り残さない」に反してしまうので、本気で人とぶつかってはいけないという意識になる。つまり、ある一定以上「情熱的」に人と接したら「ダメ」なのだ。

人は誰しも「感情的」になってしまうことがある。しかし、「感情的」になるとどうしても、間違ってる人に「キレたり」「悲しんだり」する。そうすると、絶対に誰かそこから消えてしまいたくなる者が現れる。その瞬間「誰一人取り残さない」に反するので、「感情的」に人と接するのもNGだ。

「誰一人取り残さない」を目指す人は、ある一定以上、「情熱的」にも「感情的」にも人と接せないということになる。

ちなみに、その程度の馴れ合いコミュニティが心地いい人間が近年増えてきてるのは間違いないだろう。そしてそういう人たちが、「誰一人取り残さない」を大好きになるのも分かる。

しかし、それで創る社会が持続可能なのかは甚だ疑問だ。全員希薄な人間関係の中で孤独に生きるコミュニティにどんな救いがあるのだろうか?この世界のみんなを機械にして言うことを聞かせたいのだろうか?

無意味な「誰一人取り残さない」

ここまで見てきたように、ヨーロッパ発の感情論由来の概念である「誰一人取り残さない」は、何層にも渡る矛盾を孕んでいる。

ごくごく単純に「誰一人取り残さない」という「意識」を義理人情や公職の責務で大切にすべき場面があるのは間違いないが、それ以上でもそれ以下でもない。この概念にはなんの可能性も深みもない。

それならば、よりダイバーシティの認められたインクルーシブな社会の実現に向けて、一生懸命「情熱的」に体ごと目の前の人や技術にぶつけて向き合い続けるべきだろう。

生物達がそうやってしのぎを削り合うことこそが元来、持続可能な社会であるはずだ。

「誰一人取り残さない」という謎の概念に執着して、それを教育機関で教えたり、あるコミュニティでの暗黙のルールにしたり、そんな馬鹿なことをしてはいけないと、僕は思っている。

それにましてフリースクールの先生が、子供に「誰も取り残しちゃダメだよ」と言ったり、言わなくても思っていたら、それはその子供に「あんたは取り残されたから私が拾ってやってんだよ」と言ってることになる。バカなことはよした方がいい。

環境活動や人間拡張技術も含め、一生懸命頑張ってる人はたくさんいる。そういう人は、「取り残す」とか「取り残さない」という概念さえも必要ない社会を夢見て頑張ってるんだ。その人たちの邪魔をしたらダメだし、教育機関で教えたりしたら、生徒がそういう人になる可能性を潰してるも同然なのだ。

先生が、「アフリカで学校に行けない子供は取り残されています。誰も取り残しちゃダメですよね。」と教えたら、子どもは「じゃあ学校が必要だ!」と思うに決まっている。「なぜ人間に教育が必要なのか」という根本的な思考をせずに、謎の正義感で動く人間になってしまう。

「誰一人取り残さない」という公務員の然るべき優しい信念を、人間を思考停止に陥らせる道具に使用してはいけない。



と、ここまでの一連の考え方を持つ余地を社会に作るべきだと私は思うことがよくある。

世界はそんなに単純でないし、曖昧な「意味」の流布はニヒリズムの拡大と新たな非持続可能性に繋がりはしないだろうか、、、。との見方は、いかがだろうか。

「誰一人取り残さない」を今一度考え直す機会になればと思う。

「誰一人取り残さない」をモットーにしている人からの見解を、聞いてみたいと切に願っている。

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