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認識論とかの話じゃないよ。そんな話じゃないんだよ。この世界のほとんどのことが、そんな話じゃないから、感動するんじゃないか。とか言ってみよう。

人間分子の関係網目の法則は、人間が分子みたいだという話だった。ああ、この世界はこういう見方もできるなぁ、なんて人生の楽しみの1つでしかない。

「サプライチェーンを客観的に追い続けると、自分の食べてる牛さんのエサが地球の裏側で作られていたことに気が付く。そんな、想像力は持続可能な世界にとってはものすごく大切。」というのもまた、沼であって、人間臭い。

僕がエヴァンゲリオンを未だに見ずに人生の楽しみにとっておいてるのとたいして変わらない形で、この輪廻する意味世界に気付いても優しくいられるのか、ということでもある。

意味なんて儚い。この世界をこう捉えましょう、という言説があったとしても、「うん、それもいいのぅ」なんて長い白髭を触りながら、虫取りでもしたい。

意味に雁字搦めになって、Aに行っても、Bに行っても、あれ、突き詰めると同じやん、みたいなゲームに突入して、見たくないことに盲目になれるCを見つけたい、というその欲望は、果たしてこの世界で成立するのだろうか。

そう、そのCを獲得したことが「自由だ」という言説さえも、僕は石ころを転がしながら慈しみたい。

「自由とはなんだ」「自分とはなんだ」みたいな近代的な問を突き詰めれば、日本文化との調和は遠きものになる。

もともと自然なんて、人間に「分かりやすい」意味を与えるために成り立ってなどいない。

きっと考えれば考えるほど、人間が作り出した「意味」の沼にハマっていく。

「そんなの信じたくない」という圧倒的生存本能が自分の無意識下で働いていることを自覚し、それを外側からヨシヨシしながら、お茶を淹れよう。

ただひたすら、お茶をたてよう。

あれ、気付いたら、この世界をどう認識するかとか、自分とは何かとか、何が大切だとか、そんなことより、湯の沸く音に感動している自分がいる。

その後に浮かんできたこと、それこそが、そこにあったもの、なのかもしれない。

あれ、自由ってこういうことなのかもしれない。

なんて思ってるかもね。

関係性と調和の世界へようこそ。

まだ、もっと、大丈夫なのだよ。

それ、大地に立って、歩きだそう。

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