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【『趣士村』の核心-"道"と"歴史"】


今日は趣士村のアイデンティティというか方向性というか意味というか目的というか大事なことというかを書きます。ゆっくりじっくり読んでみてね。

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<悟りを開くな。何かを悟れ。>

昨日のは、かなり達観した立ち位置まで行こうよっていうテーマなんだけど、「悲しいとか、苦しいとかって無くす必要なくない?悟り開くのは、つまんなくない?」って言う人がいるんだけど、答えは、「間違いない。」だね。

まず、ここはかなり勘違いポイントで、「悟ると感情がなくなる」とか思ってる人がかなりいる。全く違う。人は人なら、感情を消せない。だから人なんだよ。

僕の言うのは、「自分の苦しみを苦しみ抜け」、そして、「苦しみを愛でろ」ということ。「苦しみを慈しめ」ということ。「あるがままであれ」ということ。「中身の詰まった深い人になれ」ということ。決して「機械になれ」と言ってる訳ではなくて、真逆で、「より人間らしい人間になれ」という話をしている。

悟りを開くべきじゃない。それはつまらない。何かを悟れ。悟りを感じろ。それはひたすら面白い。ただそれだけだ。開いたらつまらなくなる。

<″道″を創る。学びの基本。>

僕らには僕らなりの哲学があっていいと思うし、あるべきだと思う。

過去の思想家の話を鵜呑みにするような浅はかな学びをしてはいけない。その時代にはその時代の哲学があるし、人には人の哲学がある。僕らが学ぶ理由は、自分たちの自分たちなりの哲学″道″を創っていくためだ。だから、僕が投稿するものを、鵜呑みにするべきでもない。人間だから間違えることもある。そんな時は周りの人に助けてもらわなきゃいけない。盲信しないこと。傾倒しないこと。これは学びの基本中の基本。絶対忘れてはならない。

<説教するな。伝えろ。>

説教臭くなっちゃいけない。悟ると、感情論を捨てて説教臭いことしか言わなくなると思われている。説教はするな。教えを説くな。そうではなくて、愛を持って教えを伝えろ。そして学べ。その意識で話せば大丈夫だ。相手に学ぶ気があるなら説教臭いとは感じない。相手が浅はかな中身のない学ぶ気のない人間なら、その意識で話していても説教臭いと言ってくるだろう。そんな時は、帰れ。

<「歴史」の重み>

「歴史」は大切な視座を与えてくれる。孔孟思想がなぜ2500年以上もの間、人々に「教科書」として受け継がれてきたのか。(我々が使ってる教科書の中身なんて人々に大切にされてきた歴史は驚くほど短いよ)

<ここにいるということ>

奇跡的にも我々が東洋に、日本に生まれたのは、そしてそこで育ってきたのは、そしてそこで暮らしているのには、何かがある気がするし、何かを感じるべきだとも思う。ちゃんと学ぼう自分たちの環境と文化と歴史を。

<とりあえず「擁護」するのはつまらん>

この時代で、何かを「擁護(肯定)」するのはとてつもなく簡単だ。(大事なことだというのは忘れちゃダメだけど。)だって、言葉なんて操り用だから。
だからこそ、「擁護」ではない「思考」を追求するべきだと僕は思う。「擁護」は簡単にできる。僕が何かを批判しても、その批判の対象を「擁護」するのは、僕にとっては笑っちまうほど簡単だ。(「擁護」についてはもっと違うとこで勝手にやって。僕はブログでやる。)

ここはそういう場ではなくて、ここでしかできないことをしたい。それだけは覚えといて欲しい。


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明日は、じゃあなんで「中身の詰まった深い人間になれ」と僕は言うのか、について書きます。
明後日はなぜ「趣」士村なのか、「趣」って何かを書きます。
この村のアイデンティティをだんだん分かってもらえればと思います。

趣士村はこちらから↓
https://nan-life24.com/page-1348

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itsuki minamiが今感じていること見ている景色を純度の高い状態で綴っています。 Will, a fleeting memory …

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