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「勝った」「負けた」で?

本音を隠す「勝敗」という建前


悲しきことに、世の中には、「誰かに勝つ」ために頑張っている人が、たくさんたくさんいます。「誰かに勝つ」が、一番大事な目標になっている人が、たくさんたくさんいます。それが人生の目標にさえなっている人もいるのです。あなたはどうでしょうか。

何のために生きてますか?

何のためにスポーツをしていますか?

何のために勉強をしていますか?

何のために泣き、何のために苦しみ、何のために叱られているのですか?

何のために生まれてきたのですか?

「勝利至上主義」ってどうなのか


「勝利至上主義」という言葉があります。「勝ち」が第一優先、という意味ですね。スポーツには、「勝ち」と「負け」があります。スポーツは、「勝ち」と「負け」があるから、面白い。これは間違いないと僕は思っています。

「勝ち」を手に入れるために、金にモノを言わせて良い選手をバンバン連れてきて、勝ちまくる私立学校や、スポーツ組織にクレームがつくことはよくあることです。なんでそんなことをするんですか?と聞くと、「勝ちたいから」という返事がほとんどではないでしょうか。でもまれに、「勝つことで、地元の人に喜んでもらえるから」とか、「勝つことでこのスポーツを広めたいから」といった返事が来ることもあるでしょう。一体この返事の仕方で、何が違ってくるというのでしょうか。それを僕なりに解説していきます。

では質問です。

「勝ち」よりも「価値」があるものは、あると思いますか?あるならば、それは何だと思いますか?

僕はこう思います。

「勝ち」や「負け」によって生まれる、「“嬉しい”や“悔しい”といった感情」。

では次の質問です。

どんな方法で「勝ち」を手にしても、“嬉しい”と思いますか?

ズルをして勝ったとしても、それは“嬉しい”と感じることのできる「勝ち」ですか?

そういう人もいるかもしれない。「勝ち=嬉しい」という人が。

でもほとんどの人が、本当は、「嬉しい=もっと違う何か」なのではないですか?僕の場合だと、「嬉しい=周りの人が喜ぶ」とか、「嬉しい=周りの人に元気を与えることができる」とか、「嬉しい=教えてくれた人が喜ぶ」とか、「嬉しい=家族が喜ぶ」とかとか、他にもたくさんありますが、僕は「嬉しいと感じるのって、どんな時?」と聞かれたときに、「勝った時」とは言いません。僕は、誰かの人間的な感情に触れた時に「嬉しい」と感じることができます。例えば何かで誰かに勝ったとします。でも、周りが見向きもしなかったら、嬉しいと感じますか?僕は感じません。

「勝敗」があることによって、物事は何倍も面白くなります。でも、そんなところに本当の価値はないと僕は思っています。「勝敗」の先にあるものが、本質的に大切な「価値」を持っています。それを、見えなくしてしまうのが、「勝ち」と「負け」です。

だから、「勝利至上主義」、ただ、「勝ちたいから」という理由で何かをする人や組織には、魅力を感じません僕は。

洗脳を解こう


はっきり言いますが、これは「洗脳」に近いものがあります。小さい頃から、特に今の日本社会では、「勝ち」と「負け」が日常に溢れています。その中で、多くの人が、「“勝ち”と“負け”がある意味」を忘れ、「勝ち」と「負け」そのものにフォーカスし、「勝ち=嬉しい」という思考に陥ります。これが資本主義の構造です。それが良いか悪いかは、人それぞれ考えがあっていいと思います。ただ、僕は、それが「悲しい」と感じます。「勝ち=嬉しい」は美しいと思えません。「勝ち=嬉しい」はカッコいいとは思えません。僕は「勝敗」の先にある「人間らしい感情」にこそ価値があると思って生きる方が、優しく、人間らしいと思っています。

「勝ち」や「負け」はただの概念です。「勝ち」だから嬉しいのではありません。「負け」だから悲しいのではありません。「勝ち」でも嬉しくない時だって、いくらでもあります。「負け」ても嬉しい時なんて、いくらでもあるんです。なんでだと思いますか?

そうです。「勝ち」や「負け」そのものに価値がないからです。

では本当に価値があるものって、何なんでしょうか。

僕は、物事の後に生じる「人間らしい感情」にあると思っています。例えば、「勝ち」によって、自分が“嬉しい”と感じること、周りが“嬉しい”と感じること、「負け」によって、自分が“悔しい”と感じること、周りが“悔しい”と感じること、一生懸命戦う姿そのものに周りが“がんばれ”とか“すごい”とか“よっしゃ”とか元気を貰えたり、感動を貰えたりすること、、、もっともっと、人間らしい感情はとどまることなく広がっていきます。これこそが、本当に価値のあるものだと、僕は思っています。

だからね、大事なのは、「勝ち」とか「負け」とかじゃなくって、「どう戦ったか」なんだと思うんです。フォーカスすべきは、「勝ち」とか「負け」ではなく、その先にある「人間らしい感情」であって、その目指す「人間らしい感情」に向かって、「どう戦うのか」が最も大事であり、考えるべきことだと思うんです。

はっきり言います。

「勝ち」とか「負け」とかは、ただの「言葉」だよ。

「勝ち」ようが「負け」ようが関係ないし、どーだっていい。

「勝ち」そのものに価値はない。

「勝敗」とは、後の“人間らしい感情”を大きくする材料でしかない。

世の中には、「勝ち組」とか「負け組」とかいう言葉がある。僕が昔、「勝ち組になりたい」と言う人を見て、「悲しい」と感じたのはなぜだろうか。

「勝ち」でも「負け」でも、「勝ち組」でも、「負け組」でもな、「どう生きたか」によって、その後生まれる“人間らしい感情”の広がりや、深さや、大きさは、変わるんだよ。

ここをもっと分かってほしい。「負け」も、「戦い方」によっては、とんでもなく価値があるってこともあるんだっていうことを。

フォーカスするところを間違えるな。

「どう生きるか」を考えようぜ。

人間らしく生きたくないなら、サイコパスのように「勝ち」でひたすら喜んでおけばいい。

一度きりの、人間として生まれた人生を、人間らしく生きたいのならば、「勝ち」や「負け」の先にあるものを掴みに行こう。

大丈夫.