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想像力の無い人の想像力の無さを想像力の無い人のせいにするのは想像力が無いだろうし、実際には「無力」。

想像力の生む豊かさと彩

想像力がどのくらいあるかは思いやりに直結するというのは真だろう。想像力は終わらない日常の中に彩を付け足してくれたり、豊かさを運んでくれたりもするだろう。

例えば「感謝」。自分がその人のことを考えていない時に、その人が自分のために頭を下げているかもしれない、汗を流しているかもしれない、涙を流しているかもしれない、もう少し多くの人が時折そんなことを想像しさえすれば、この世界はもっとよくなる。

最悪相手の思いやりの結実の享受後に想像するでもいいが、もう少し多くの人が時折そんなことを想像しさえすれば、この世界はもう少しはよくなるのではないか。ちなみにこの場合自分に直接的な影響が発生する時にしか、「感謝」という彩が芽生えないことになる。勿体ないがそれでもしないよりましだ。

想像力が無いことは社会的にも害悪性を帯びやすいし、単一イデオロギーに埋没する非持続可能社会へ歩を進めやすくもなる。

そんなロジックは理にかなっているし、実際その通りだろう。

無論、想像力があるせいで「心配性」は発生するし、母性の過剰増幅が起きたりもするだろう。しかし、それらは視点の欠損が本質的な原因だと考えている。視野に関してはその人間が思索時や想像力を働かせるときにどのスケールまで到達し得るかということを意味する。スケールの振れ幅の小ささによる視点の欠如は、生物の防衛本能だろうが、個人の絶望を妨げて、プチパニックやヒステリーを引き起こす。

一方、想像力というのは、どの程度の時間及びどの程度の量、何かをイメージできる(思い描ける)かという話にほかならない。

想像するためにはある程度の時間は確保されていなければいけない。1秒で2つの物語を想像できる人と1秒で1つの物語しか想像できない人の差を、想像力の差ということができる。そして、言わずもがな人には人のキャパがある。さらには1つのことに集中して周りが見えなくなる人がいれば、色んなことを混ぜこぜに並行して考えることができる人もいる。この辺りを大前提として理解して話を進めたい。

運も実力のうちなのか的議論

目の前の五感が満たされたコンテンツ消費にかまけていたら、想像力は育ちにくいという話がある。フルカラーアニメを見る方が「わかりやすい」が、白黒漫画を読む方が想像の余地を残すだろう。これから、コンテンツ消費癖のついた世代が時代を作っていくにあたって想像力の欠如は大きな問題となっていくはずだ。個別最適化された状態が持続可能になる世界線においては、より想像力の重要性は問われるはずだ。


ところがその延長線上で、想像力の無い人を問題視する人間が現れ始める。つまり、「バカにバカと言うだけの人間」が現れるということである。

想像力のない人に「もっと想像しろ!」と言うのは、なんと惨めな話だろうか。お前が想像力無いんじゃないかと疑ってしまう。

その後議論の中心となるのは、「想像力の無い奴は、想像しない奴自身が悪いのか、想像力を育てられなかった環境が悪いのか」という話だろう。

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