エッセイ/世の中を名付けることの意義・効果・目的・罠?

人は生まれたら、自分の存在に名前を与えられる。もう少し成長すると、動物の絵を指差して『これは何かな?キリンさんだね』といった関わりのなかで、ものにはそれぞれ名前があることを知り、言語を用いたコミュニケーションの練習を積み重ねていく。

私たちが毎日飲むもので、生き物の命を支えている、石みたいに手で握って運ぶことはできないものを『水』と言うように、この世に存在し得るすべての要素には名前が与えられている。今日に至るまでの人類の長い長い歴史ではきっと、『名前を与える』という作業がひたすら繰り返されてきたのだろう。人が生まれることには『出産』、新発見の恐竜には『ティラノサウルス』、新しい考え方には『相対性理論』、新しい歴史的出来事には『第二次世界大戦』といったように。

名前を与えることによって、『そのもの』について語り合うための最初の基盤ができるのだと思う。


最近頻繁に見聞きする新しい名前はなんだろうか。パッと思いついたのは、手で触ることのできるものではなく事象や考え方、認識を表す名前だった。

  • 社会的問題に関する名前:オレオレ詐欺、ネットカフ難民、5080問題、Me too、〇〇ハラスメント、あおり運転、妊活、SDGs

  • 人間のカテゴライズに関する名前:ひきこもり、ヤングケアラー、ネグレクト児、ヲタク、ギャル、LGBTQ、団塊の世代、復帰っ子、ゆとり世代、Z世代

  • その他:クールビズ、コピペ、ググる、ベーシックインカム、コミットする、ペーパーレス、ウィズコロナ、DXする

名付けることのメリットが大きいことはすぐに分かった。日頃忘れられている社会的な問題に名前を与えれば、関心が集まり改善に向けた議論が深まるきっかけになる。ある一定の人間にカテゴリーとしての名前を与えれば、時代と共に変化する人々の生活へ理解を促し、社会全体も変化し続けていることに自然と意識が向くようになっている。『新しい価値観や時代の風をしっかりと受け入れ変化し続ける社会』とは、人に優しい希望溢れる社会であり、まさに理想だ。

だが一方で、『名前を与えれば世の中はもっと明るく、もっと良くなる』はあまりに短絡的である。

そんなに綺麗な真っ直ぐな道があるわけがないだろう。少し考えると、デメリットというか、罠があることに気がついた。

例えば、セクシャルハラスメントについて考える。『男女は互いに性的欲求を満たすための道具なのではなく、それぞれの性的特徴は尊重されるべきで、すべての人はありのままの姿で魅力的で、素晴らしく、外から不当な干渉を受けるべき存在ではない』というような常識は、21世紀に生きる人間なら誰でも持ち合わせていたい人間の尊厳に関わる理性的な見解(けんげ)であるが、日本でこういった常識あるいは認識を持つのは過半数以上ではないと思う。

常識・・・無意識のうちにある考え方を支持しており、自然とそれに沿った行動ができる。
認識・・・ある考え方を支持しており、その考え方に沿った行動をできるよう努力する。

基本の常識が定着しない限り、人間が人間から大切に扱われるはずもなく、防げるはずのセクハラ事件を減らすことはできないと私は考えている。そうすると、

『セクハラ』と名前をつけた効果は①問題の可視化、②これまで気づかれなかった潜在的被害・加害の判明、であるということになる。


ここで、『最初からそれが目的ですよね?どこに疑問があるの?』『それでもものすごい前進です!無関心からのスタートでしたから』というつっこみを受けて起承転結、この話に関してできる議論をぐるっと一周したように感じてしまうが、まだ続きがあることが忘れられがちだ。

セクハラに値する行為は名前が与えられる前から誰しもが人生で一度以上は経験し、不快感をもっていたものだ。わざわざ大きな話題にされなくとも、正しくない行為だという問題意識はあったにちがいない。そうなると、ここ数年で突然名前を与えられ、注目を集める話題として一気に社会全体に広がった理由には、

『誰かにとって』『大きな話題にされる必要性があった』という側面がないことはない、ということになる。

もう一つの例としてヤングケアラーについて考えた。ある日を境に、一人の子どもは自身の人生の外側にある環境の変化によってヤングケアラーになる。どんなに社会が発展しても、こういったことが起こる可能性は消し去れず、名前の有無に関係なく彼らは以前から存在し、これからも存在し続ける。今日の日本では彼らの存在に光が当てられ始めたばかりで、国が実施する実態調査の結果が出たのち、支援の形についての検討が始まるのだろう。名前による効果はセクハラと同様であるようだ。

ある家族に社会が介入するということが可能なのか?という点も重要だ。実は、『人や家族の生活が社会とつながっている』と『人や家族の生活に社会が介入する』は一見とても似ているが全く性格が異なるものだ。家庭内で起こる難しい問題に実体験をもつ人はこの違いを強く実感しているかもしれない。最近の日本では、老人介護にはデイサービス、育児には子育て相談所、障害者との生活には支援施設、児童虐待には児童相談所、DVにはシェルター・・・とそれぞれの問題に対応した支援の場が次々と用意されてきている。社会ができることとして最大限の支援体制が拡充されているのは事実だが、これらは起こった問題への対処法であり、問題根本の解決策としては弱い内容である。セクハラの例と同様、問題が起こらないよう実際に講じるべき対策は名づけたことで得られる効果とは別のところにある。


罠とはつまるところ、『名前を与えたことによる本当の利益を得るのは当事者ではなく、社会でしかない』ということだ。

社会的問題を具体的にカテゴライズ(名付ける)すると、社会全体の情報・知識として整理され、議論・関心が集まる。すると支援団体なるものが現れ、お金が動き、雇用が生まれる。より経験が蓄積され支援が体系化されてくると、支援活動はちゃんとしたビジネスになる。ここまでは好循環のように見えるが、この先にビジネスが問題の解決へと直接つながるかといえば、必ずしもそうではない。本当に困っている家族にはサービスに対して支払うお金がなかったり、自身の日常に問題があるという認識自体がないこともあるからだ。当事者に問題意識がなければ社会は支援することができないし、たとえできても内容は対処法の提示にとどまる。

『そんな社会、悲しすぎる』『きっと困っている彼らを根本から救う方法があるはず』という意見には、私なりの答えを用意した。それは、『当事者の隣人となった人が自分の人生を分け与える覚悟で助ける』という方法だ。最近増えつつある訪問医療という形はこの考え方にかなり近い例であると思う。

隣人・・・当事者から最も近いところにいる人。本当の意味で心から寄り添ってくれる人。

例えば痴漢でなんらかの処分を受けた人がいるなら、その隣人は二度と繰り返させないために、過ちの原因となった考え方を本人が捨てられるよう根気強く対話をする。しかし人に何かの考え方を捨てさせるいうことは普段、何十年も精神科医のところへ通って成功できるか分からないほど難しいことだ。ヤングケアラーを支えるということでは、仮に給付金が支給される仕組みができても、子どもが自ら手続きできるのだろうか。家事を手伝うヘルパーが派遣される仕組みができても、介護という24時間の責任から彼らを解放させてあげることはできない。隣人ができることは、一緒に住み24時間からせめて12時間の負担にしてあげることだが、血縁の家族親戚でも率先してその役を担おうと思うためにはものすごい覚悟と勇気、努力が必要だ。


『いったい誰にとって大きな話題にされる必要性があったのだろうか?』

それでは、罠の次に明らかにすべき疑問へ戻る。話題にされることは、問題を抱える当事者が最も関心を持つ『苦しみからの解放』には結びつかない。それでは、ある概念が名前を得た結果、その効果はどこへどう結びつくのか。答えはある意味一目瞭然だ。社会的問題に関する名前であれば、最終的にはビジネスに結びつく。認知度が上がることで市場が広がる。人間をカテゴライズすることに関する名前では、彼らの社会的存在が認められ社会的立場が改善される。その他に今回分類した名前については、実績を提示するために役立っている。クールビズ、ウィズコロナはそれを宣言した人の実績になり、ググる、コミットするを使えば時代の流れに乗っている自分の今どき感の象徴となり、ペーパーレス、DXするはそういった目標を達成できたという実績の提示だ。

『ちょっと考えすぎなんじゃないか?』と、私も思った。特定の誰かが最初から具体的な何かの必要性と目的をもち、大きな話題にさせようと声高に周知を呼びかけているのではなく、徐々に一人一人の声が集まっていき、どんどん大きくなっていった先に名前が生み出されるという順番があるからだ。

ここで最後に、

『なぜ人々は社会に向かって声を出しているのか?』

ということに考えを巡らせたい。それはやはり、社会全体の情報・知識として次の世代へ繋げていきたいという人々の想いなのだろうか。インターネット・SNSの普及により、特段の目的意識がなくても自分の声を外へ発することが簡単に可能となっている。そんな声が量として集まりやすくなり、ふと気づけば社会に大きく働きかける結果になっていたという場合もあるのかもしれない。

世の中のあらゆる事象に絶えず名前が与えられ続け、その名前の意味するものを把握すること自体でいっぱいいっぱいになりそうな現代社会。だが実際の世の中は、どんな名前でもカテゴライズしきれないほど多様で複雑で、現実の世界にはどんなに時代が進んでも変わらない、喜怒哀楽、上り坂下り坂、合理不合理があるものだ。それを分かった上で名前の力を過信しないよう、気をつけていくべきだと思った。

人間の問題は人間による実際の行動でしか解決できないのだ。


余談だが、最近はカタカナ語が急増しているように感じる。ペーパーレスは脱書類主義、ウィズコロナはコロナ共生社会、ベーシックインカムは基礎所得保障くらいはちゃんと日本語らしくやっていかないと、日本人と共に日本語も絶滅への道を辿るのではないかと素人ながら心配になる。言語の弱さは文化や民族を守っていくことの足を引っ張ると思う。カースト制度やペレストロイカのように、概念もその発現自体もが日本固有ではない場合にカタカナを用いるのが日本語的使い分けなのだと私は思っていたが、どうやらそうではないらしい。

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