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ただ、座って考える。

悟りを開くとは一体どういうことだろうか?

何かを悟ったことがあると言う人に憧れる。
それはどこか自分より尊いものを感じるからだ。

決して宗教的なものではなく、どちらかと言うと自分が生きていくための道しるべそれを探していると言うところが本当のところだろう

著名な人の人生。
これは近年であっても、歴史の中の人物であってもその人物像が尊いとされている理由、そこにその人が悟りがあるんだろうか?
そんなことを考える。

学生時代は司馬遼太郎の龍馬が行くを読んで、坂本龍馬と言う人が影響を与えた。どんな人物なのだろうか、脱藩してまで何か成し遂げたいことがあったんだろうかなどいろいろ想像をしてその人物像を自分の中で想像していた。それは必ずしもその人の人物像ではなく、誰かが想像した人物像を自分の中に消化していく。要するにその人物像は、結局は自分で作った人物像だと言うことだ。小説であっても、作者の人物像と言うものがあるし、それを読んだ私の中で人物というものが成立してしまうのだ。

そんなこんなで社会人になって色々と仕事をして尊敬できる人、この人のようになりたいと思う人など、誰でもそういう憧れと言うものは持つものだろうが。一向に自分の中では悟りには近づかなかったというか、そういう人が存在しなかったのだ。

いろんな人の考え方と言うものも学びたくて、たくさんのいろいろな自己啓発本の本も読んできた。それは日本人だけではなく、気になったものはかたっぱしから読んだ。
その人の人生は素晴らしいと思ったが、自分が求めている。道しるべがその中にあるかと言うと、その人の時代背景がその人を産んだと言うこともありでは、自分の時代背景に対する自分の進むべきものは?となったときに、結局他人からの評価ではなくて、自分が進む道は自分が決めないといけないと。ただ当たり前のことだが、その結論に至った。

数年前から禅の本を読むようになった。
きっかけは何だったかはっきり覚えてはいない。
前提ただそこに座るだけという意味で只管打坐と言う言葉がある。ただ座ることだけをすると言うものだ。
座ることだけと言うのも、なぜそういうことをするんだろうか。やっていることに関してなぜそれをするんだろう。それをして一体何の意味があるんだろうか。そういったことを考えてきた答えは結構身近なところに存在した。

現在過去未来

私たちは知らない間に考えている。例えば過去の変わらないつらい気持ちを思い出して、嫌な気持ちになったり。または、いい気持ちになったりと言うこともある。それらはどちらも、今考えていることである。そしてこれから起こる未来のことも、いろいろな予測をして、今の時点から未来を考えている結局座ることと何も変わらないのだと言うことに気づいた。過去のことを考えて嫌な気持ちになったり未来のことを考えて不安になったり、それは今考えていることであって、過去に起こったことを今再現しているわけでもなく、未来に起こる不安を今再現しているわけでもなく、ただ今その感情を自分の中に宿しているだけと言うことに気づいた。それが座るだけと言うことの意味だと思い今座っている。今息をしている。今瞬きをしている。そんな当たり前のことについても意識をしているときはわかる。しかし他のことに集中をしていると瞬きをしていることであったり、自分特有の仕草をしていることであったりと言うことに全く気づいていない時間と言う言葉は今を感じる自分を感じる自分と向き合う。そういうことなのだと思う。なので、過去のこと考えたり未来のことを考えて生きていくということが必要なのだが、そういう気持ちだけを持っていても仕方がなく、今を頑張るしかないのだ。今が1番大事だものであり今を気づかせるものなのだと思った。

青い鳥の話のように、結局自分の近くに探していたものがあったと言うような話があると思うが、結局自分が探しているものというものが外にあるのではなくて、遠くにあるものでもなくて、ただ今自分が存在している場所に、自分の存在価値と言うものがあると言うことなんだと思う。
なので未来を見て頑張る。理想は大事なのだろうけれども、今頑張れないといけない。

今を生きる事が、一番大事なのだ。

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