見出し画像

答え合わせは、もうやめた

”いかりの正体は、かなしみなんだって”
いつか出会ったその言葉に再会したのは一週間ほど前のこと。

先月末に東京都から外出自粛要請が出た。日を追うごとに増える制約、緊張感。とは言うものの、なんだかんだとマイペースに生きてきた自分は大して影響を受けないだろう、とタカをくくっていた。

ところが次第に寝つきが悪くなり、日常的に深夜に目が覚めるようになるなど少しずつ異変が起こり始めた。そして変化は日々の習慣にまで及んだ。本が読めなくなりだした。特に論理的に構成された文章を読むのが辛い。何か読めるものを、と思い手に取ったのは中高生の頃に読んでいた本。そこで目にしたのが冒頭の”いかりの正体は、かなしみなんだって”という一文だった。

いまSNSを開けば、タイムライン上で怒りの言葉を見つけるのはたやすい。そしてその怒りの矛先は厄災の原因とでも言うべきウイルスにではなく、政府など権力者に向けられているものがほとんどだ。他国に目を向ければ、同様かそれ以上の困難な事態の中、矢継ぎ早に対策を繰り出すリーダーの存在が目に付く。同じように処して欲しいのに、ケアして欲しいのに求めるものが得られない。そんな現実に多くの人が、自身が大事にされていないと感じ、傷ついているのではないか。怒りの正体が悲しみだとしたら、それは十分にあり得ることだろう。

先の見通せない、終わりがいつ訪れるか誰にもわからない現状は誰にとっても辛い。「みんな大変なんだから我慢しよう」などと提案する気はまったくない。むしろ、これを機に今まで暗黙の了解とされていたことが変わっていってもいいんじゃないだろうか。

たとえば、もっと互いの感情を伝え合う機会が増えたら生きやすくなる場面が多くなるかもしれない。ハラスメントにならないコミュニケーションは大前提だけど、わたしがそうだったように、怒りや悲しみといった感情を良くないものとしてフタをして隠して生きてきた人、生きている人はたくさんいるのではないか。大人だから、子どもだからこうあるべきみたいな規範に縛られてはいないか。わたしたちが生きる上で生真面目に守らされてきた不文律、ルールらしきものがなくなったらどれだけ生きやすくなるだろう。

数日の間、外に出ることなくずっと自宅で過ごしていると会社、学校、その他社会の突然のルールチェンジに自分だけが置いて行かれた気分になる時がある。自分以外はもうこの環境に適応しているように思えてしまう。だけどそれって本当だろうか。

学校は休校。幼稚園や保育園も休園。仕事は急遽リモートに切り替えて対応。そんな環境にいる友人たちは本当に大変そうだ。自分の身ひとつどうにかすれば何とかなるわたしとはまったく違う。親だから、仕事だからと並べ立てられた理由らしきものを懸命に飲み込んでいる。苦しくなって代わりに吐き出す感情があるのなら、それぐらいは受け取れる存在でありたいと思う。

考えられるべきものが無数にある中で、判断を迫られる場面も多いだろう。後になってその選択が正しいのかったのか、思い悩む日もあるのかもしれない。わたしが思うのは、そんな答え合わせなんてずっと先に、自分がやりたくなった時にやればいいということ。何ならやらなくたっていいとさえ思っている。もし少しでも思考をゆるめることが可能なら、この困難な時代に一つ一つ、答えを出し続けている自分のことを肯定してほしいという気持ちでいる。

次の一節は自分も含め、実践して欲しいことの提案。

他人を傷つけないための優しさを、気遣いを自分にも少し分けてみよう。湧き出る感情があるなら、濁って美しくないものに思えても、それも自分の一部として受容してみよう。割り切れない思いに気が付いたら、すぐに否定はせずに信頼できる人に話してみよう。

この価値観の転換期を境に怒りも悲しみも、そこに寄り添うために流される涙も、恥じたり隠したりする対象でなくなって、自然なものと考えられるようになったり、分け合える世界に変わるきっかけになればとも思うけど、それは高望みだろうか。

きっと映画のクライマックスのような感動的な雪解けの瞬間、そんな象徴的な演出も無いままにこの危機は終わりを迎えるのだろう。そして、この災禍が静かに終息を迎える前後で、それぞれが自分の信じるものを軸に生きる日々が、ひっそりと始まっていくんじゃないだろうか。

わたしが大事にしたいものは何だろう。幸か不幸か考える時間はそれなりにありそうだ。少し腰を据えて考えてみよう。

#もぐら会 #怒り #悲しみ #おーなり由子 #きれいな色とことば

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?