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短歌note/現実味のない感情と

感情が追いつかないまま君の死にたちあう
辺りは静寂の闇


(気持ちを整理するために)

仕事の休憩中に大学の友達から、同期の男の子が亡くなったという知らせを受けて、しばし茫然とする。
思わず「え」って呟いてしまったほど。
(まだ信じられない)

お通夜も告別式も近親者のみの参列だったけど、お別れを言う時間は設けてあって、仕事帰りに急遽会場に寄る。
(ちょうど帰り道の途中にあった)

辺りは黒い喪服を着た人でいっぱい。
(平服だったから、入っていいか尻込みする)
でも、着替えてここまで戻る時間はなかった。そんなことしてたらお通夜が始まってしまう。

会場の人に訊いてみたら、そのままの服装で大丈夫とのこと。
受付で記帳してお悔やみを述べて、なかに入らせてもらう。
棺のなかに入ってる同期の子を見ても、これが本当なんて信じられなかった。
現実に全然感情が追いつかない。
それでも最後に顔を見られてよかった。

ほんの数ヶ月前、同期の子たちは忘年会を開いて、(私はそのとき行けなかったけど)
亡くなった男の子も普通に話してた。
あれが最後の言葉になるなんて。

大学の頃に一度だけ、
その子と東京に行ったことがある。
まるでデートのような時間だった。
(確かふたりでマックに行ったはず)
何か聞き返したときのその子の表情が、あまりに優しくて一瞬だけ見とれた。
そんなことだけかすかに覚えてる。


『ノルウェイの森』の言葉を思いだした。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。


その箇所を数年ぶりに読み返す。

まだ小さなお子さんのことを考えると、少しだけ泣きそうになる。現実感の伴わない悲しみが膜のようにうっすら覆ってる。
私でさえそんな気持ちなんだから、家族の方々はどんなに悲しいだろう。


死はずっと先にあるものだと思ってた。
30代なら誰でもそうだろう。
でも、そうじゃない現実だってあるのだ。
メメント・モリという言葉を思いだす。

頭のなかがふわふわと落ちつかない。
現実味のない気持ちを抱えながら、今生きていることも、きっと当たり前じゃないのだろう。死が生の一部であるならなおさら。


連絡をくれた同期の子とも、また話せたらいいと思う。



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